真冬の・秩父路・紀行(秩父の夜祭り・古い街並み)2009=H21〜2010=H22

 
  関東の一部でありながら、近いようで・遠い、山間部・盆地ゆえに、独特の文化・伝統・人情を、かたくななまでに守り続ける、秘密の花園のような・別世界が、埼玉県秩父地方です(天気予報でも、必ず、別枠で出ます。)。

  
  私は、大学生時代(まだ女装・水商売のアルバイトに飛び込む以前。ホモの・オネエの・少年時代。)に、家族旅行で、秩父へ、一泊の小旅行をした経験があります。
  かの有名な、日本三大曳山祭りの、「秩父の夜祭り」を見物する事が主目的でしたが、思い立ったのが・お祭りの数ヶ月前だったので、秩父市内には宿が取れず(毎年、観光客達は、翌年の予約をして行く程の、人気ぶりです。)、少し北寄りの・荒川沿いの・観光名所・長瀞に・やっと宿が予約出来ました。
  東京の・上野で家族達と集合し、熊谷へ、そして、のどかなローカル列車の・秩父鉄道に揺られて、まずは長瀞の・純和風旅館へ到着し、昼間は・有名な長瀞の川床(荒川沿いの、怖い・危険な・景勝地。)を見物し、そのお宿で自慢の「鯉こく」料理を味わって見てから、タクシーを呼んで貰って、まだ日のあるうちに・盆地の中を南下して、秩父市内へ到着しました。
  真冬の12月上旬だったので、平野部に比べると、かなり底冷えのする街でしたが、天候には恵まれたので、夕方から深夜・未明まで、バッチリ・存分に、秩父の古い街並みと、秩父の夜祭りとを堪能出来ました。
  長瀞から秩父へ着くと、道幅の狭い・旧街道(目抜き通り。古い民家や・土蔵や・西洋館が、ずらり。同じ埼玉県の、小江戸・川越とは、街並みも、山車屋台の形式も、お囃子も、全く別の文化圏で、独特の雰囲気でした。)は、当然・歩行者天国になって居り、凄い人混みで、やっとやっと進める感じで、屋台の両側に・舞台を設置して、少年歌舞伎などが演じられて居ました。
  また、秩父のシンボルである・武甲山が、当時の「秩父セメント」により・無惨に削り取られて・変形して・露出した石灰土の・白さが、痛々しく見え、異様に感じられたものでした(昭和末期の話です。)。
  それにしても、真夏の・海辺や川辺や湖での花火大会とは違って、真冬の・空気が凛と澄んだ・山間部での打ち上げ花火は、鮮明で・強烈で・哀しいくらいの・美しさでした。
  また、御神輿の行列は・神聖で・格調高く・大人しい印象でしたが、曳山6台(屋台が4台。笠鉾が2台。)は・子供の頃からテレビや書物や写真集などで見て・憧憬れて居た物を、生で見物出来たので、やはり感動しました。
  私個人の価値観と好みから行くと、秩父の曳山(屋台。)が、その絢爛豪華さ・格調高さ・品の良さ・優雅さ・高級感・完成度などの点では、日本一だと思いました。昼間の・彫刻や金具や織物をムキ出しにした姿も・流石は「動く陽明門」と形容されるだけあって・お見事ですが、何と言っても「秩父の夜祭り」ですから、無数の提灯や・三段式のぼんぼりに・効果的にライトアップされて・浮かび上がった・夜の姿が印象的・感動的でした。
  特に、クライマックスの、お旅所へ向けて、6台が一列に勢揃いして、中心街から・団子坂を勇壮に曳き上げて進む様子は、幻想的でさえありました。


  
  さて。あれから二十年以上が過ぎ去り、平成も21年の秋の話です。
  年末〜年始の出稼ぎ先として、金沢・富山・姫路・岡山などから、お誘いを受けて居ましたが、秩父に・臨時的に・ゲイバー(ニューハーフ・ショーパブ。)が開店するので・と・お誘いを受けた際、雇用条件は一番劣悪であったものの、現在の住居のある・前橋から近く・定期的に往復可能だし、何よりも、あの、忘れられない「秩父の夜祭り」を・もう一度・生で体感したくて、写真と動画に記録したくて、ハイテクなデジカメを買い足してまで、秩父に決定しました。
  罰金を引かれるか・解雇されてでも・「秩父の夜祭り」の当日は、お店(仕事。)は休んでしまう覚悟で、秩父路へ、10月中旬に乗り込みました。
  幸いな事に、前夜祭の日は・仕事でしたが、本祭りの日は・店自体が休み(平日だったし。)となり、秩父へ来て正解だと思いました。

  当日は、生憎の雨降りでしたが、腹の底までドーンと響く・打ち上げ花火の音の連続に・居ても立っても居られず、20時頃には雨も殆ど上がってくれたので、さァ・・・・・・・・今がチャンスだ!!!!!!!!!!!!!!!!!とばかりに、デジカメ2台(それぞれに、予備のバッテリー3個ずつ。SDカードの予備も、バッチリ。)を持って、フード付きのダウンジャケットで・重武装して(トレーナーも・コーデュロイも・ソックスも・全て二枚重ねにして、防寒。)、傘は持たずに、部屋(中心街から1〜2km程度の、郊外型の、新興市街地にある、ワンルームの寮。)から、勿論、徒歩で、勢い良く、飛び出して行きました。

  部屋を出てすぐに、武甲山に上がる打ち上げ花火の、動画撮影。西武秩父駅の手前からも、花火の動画撮影。

  お花畑駅近くの・団子坂では、市役所裏手の・お旅所へと向けて、先頭の・宮地町の屋台が・曳き上げを始めたところでした。

  警官に3人も質問すると、「雨なので、屋台4台のみで、今年は、笠鉾2台は・出場しなかった。」「昼間は、ビニールシートを冠せて、巡行したが、笠鉾2台は・夜祭りには参加せず、とっくに・自分の町内に帰ってしまった後。」「雨なので、団子坂は登らないことにしたけれど、大通りに行けば、まだ笠鉾も居る筈。」と、別々の答えが返って来ました。

  とにかく、私は、故郷の・那珂湊(水戸湊。)の夏祭りの・祭礼の順序を想定し、二十数年前に見た・「秩父の夜祭り」の・形式も想い出しつつ、中心街へと向かいました。一心不乱に。無我夢中で。
  すると、次々に、ビニールシートを(雨が上がったので。)はがした・提灯とぼんぼりとに照らし出された・「動く陽明門」屋台4台が、お旅所へ向かって来るではありませんか!!!!!!!!!!!!!!!!!!!まさに、ベスト・タイミングでした。宮地町、上町、中町、本町、と。
  これらを、一台ずつ、丹念に、写真と・動画とに・記録して行きます。真冬の山の花火は、まだ続いて居ます。それっ、今が最高潮だ。
  目抜き通りとの交差点では、丁度、ラストの本町屋台が・方向転換をするところに出くわしました。ラッキーでした。
  私の行き付けの美容室(夜祭り当日は、二日間、臨時休業にする程の、お祭り野郎。)の男先生の・本町屋台連の中に居る筈の・粋なハッピ姿は、とうとう発見出来ずじまい。
  地元の老舗「矢尾百貨店」前には、ビニールシートをはがして、ライトアップはせずに、中近の笠鉾が、団子坂へは今年は上らずに、自分の町内へと引き返す寸前の姿に出会え、また写真と・動画。
  よく観光案内ポスターなどに出て来る、唯一・総白木造りの・下郷の笠鉾だけは、既に去ってしまった後で、今回は見れず・記録出来ずじまいなのが、残念無念。
  でも、観客が・団子坂方面へと移ってしまって、少し閑散とした、雨上がりの・本通りを歩いて見て(露店の多いこと。)、紅白の幕を張り巡らし・御神灯を飾った旧家や・中町の会所や・本町の会所も見て・撮れ(那珂湊や、川越と、同じ風景。マツキチの私は、ポイント・着眼点は、しっかり、見逃しません。)、にんまり、満足。ここで、やっと、一服&飲食(立ち喰い。)。

  いよいよクライマックスを見届けに、団子坂方面へと引き返しつつ、終了間近の花火も・また録画。

  団子坂の曳き上げは・狭くて危険なので、特別予約観覧席の観客以外は・進入禁止。
  それで、南隣りの坂道を上がって、市役所裏手の(普段は、大駐車場。昔は、ここに、見世物小屋・サーカス小屋なども掛かって居た筈。)・お旅所へと先廻りして、屋台4台が・団子坂を曳き上げて来るのを・待ち構える・と言う、抜け目の無さ。

  今年は、雨天だった為、笠鉾2基は・お旅所ではお目に掛かれなかったけれど、真冬の花火、屋台4台の揃い、お旅所での神事、各町内の屋台上(舞台上。)での・子供達による奉納舞い(年輩の女性による、お三味線と、長唄付き。)も全部見届け、記録出来、ほぼ満足。
  二十数年前の経験上、南極探検隊みたいな?重武装で行ったので、今回は・おなかもグルグルと悲鳴を上げずに済み、尿意も一度ももよおさずに済んで、良かった、良かった。

  あとは、お旅所から、一台ずつ、屋台が、団子坂を下って行く、曳き別れの、クライマックスシーンを見届けるのを、待つのみ。

  それで、テント式の仮設飲食店へ入り、喫煙&生ビール&大喰い、バッテリーとSDカードの個数の確認、写真や動画の再生見、日記帳を開いて・雑にメモ取り。
  すると、誰かが「マキちゃん!!!!!!!!!!!!!!!!」と背後から声を掛けてくれ、仰天して振り向くと、例の美容室の・お局様(リーダー。)的・お嬢で、可愛い男の子と母子水入らず中で、「先生を、とうとう見つけられなかったのよ。」と私。「先生も、マキちゃんが、必ず来てる筈だから、みんなで一緒に記念撮影したがってたわよ。」と、お世辞でも・嬉しい言葉。「あら?先生たちは、何処に居るのかしら?屋台周辺にも、見当たらなかったのよ。」「美味しい処取りで、曳き上げまでだけをしたら、最後まで立ち合わずに、とっとと近所へ帰って、行きつけのスナックで飲んでるわよ。」とのこと。
  お局様は、そく携帯電話を取り出して、「あ、先生?今頃になって、マキちゃん、発見。代わりますね。」と、私に手渡し、先生に、やっと、御挨拶だけは実現出来た次第。
  もう、近所へ引き揚げて、飲み会に入ってる・との事で、とうとう先生の・粋な・ハッピ姿は撮影出来ずじまい。
  お局様母子と別れ後も、延々と、未明まで、お旅所に居すわる私。とうに、日付変更線は変わり後である。

  かくして、参加者も・観客も・だいぶ減ってしまった頃、真冬の・秩父盆地の・谷底にある・箱庭のような・古き良き街は・白い霧がたちこめて来て、祭りの終焉を惜しむ・曳き別れに。白い霧の中への・団子坂を、屋台は・一台ずつ・ゆったりと・ギシギシときしみ音を立てて、お囃子と共に、下って行く。
  一台ずつ、無事に下り切ると、アナウンスが流れて、拍子木と・鈴の音と、満場の拍手と歓声とが湧き起こる。

  私は、地元民ではないので、屋台が自分の町内の会所前まで辿り着く・最後の最後の姿までは・ついて行かなかったけれど、とりあえず、「秩父の夜祭り」の・要所要所の見処と・真冬の山に上がる花火と、夜の巡行と、お旅所への勢揃いと・奉納舞いと・神事と・団子坂からの「曳き別れ」までを、しっかり見届け、記録も出来た。臨場感・満足感は、十分に得られた。
  「秩父の夜祭り」を、これで、二回も見れた。一生のうちに、あと何回かは、また見られる事を、願って居た。
  携帯電話の時計を見ると、既に、午前3時を廻って居たので、テクテクと歩いて(コンビニへも寄って。)、ワンルームの仮住まいへの帰路についた訳でありました。

  道々、マキが、高校の卒業文集に載せた、散文詩「真夏の夜の幻想曲」の最終部に添えた、反歌(短歌。)一首を、ふっと、想い出した。

  曳き別れ   名残り惜しやな   山車屋台
  ゆらりゆらりと   散りゆく囃子

  山国・盆地・谷底・真冬の、「日本三大曳山祭り」のひとつ(私個人の好みから言えば、トップ。)である、「秩父の夜祭り」の、クライマックス後の・終末部・曳き別れ時に味わった、惜別の念は、
  海岸部・平野部・港町・真夏の、「茨城県では三大曳き山祭り」のひとつ(茨城県水戸地方では、トップ。)の、我が故郷の、「那珂湊(水戸湊)天満宮御祭礼」(那珂湊八朔祭り。)の、クライマックス後の・終末部・曳き別れとは、非常に酷似する感情と情緒と哀愁とを誘うものであった。

  上記の短歌は、そのまま、秩父人が、秩父の夜祭りの・曳き別れを・唄った物だとしても、核心は合致する風情ですものね?


  
  さあ、それでは、いよいよ、今回の、日本三大曳山祭りのひとつ・秩父の夜祭りや、旧市内に今も残る・古い街並みなどの、写真集と、簡単なコメントを加えて行きましょう。
  今回は、写真よりも、音入りの・動画を中心に記録したので、まだ動画の編集や・軽量化や・HP内への貼り付け方や・UPの技術を習得して居ない私は、動画のUP(これらが、やはり、リアルで、鮮明で、臨場感に溢れ、圧巻、秀作。)は、まだ先の実現となりそうです。
  まずは、写真集と、コメントだけでも、御覧下さいませ。

団子坂を下り始め、曳き別れ時の、中町屋台。                 お旅所での・奉納舞、上町屋台(側面より。)。
団子坂へと向かう、中町屋台。
本通りから、団子坂方面へと、方向転換する、本町屋台。
団子坂へと向かう、本町屋台。                                             中近の、笠鉾。
今年は雨天の為、ライトアップしての・夜祭り迄はお供せず、本通りから、自町内へと引き返す、中近の笠鉾。
地元の老舗「矢尾百貨店」前にて。
この「矢尾」呉服店などが、近江商人だった為、秩父は関西との交流が古く、お囃子なども・関東風=江戸囃子ではなく、どちらかと言えば関西風の・上品な・雅やかな・曲調が伝承され続けて居る、との事である。
雨上がりの、目抜き通り。中町の会所(氏子会・祭典事務所。)。
本町の会所。普段は締め切りの古民家を、祭礼時だけは全開にする。
旧家(松本塾。)の背後に、武甲山への打ち上げ花火が、鮮明に見える。
団子坂を曳き上げ、市役所裏手の・お旅所前に勢揃いした、屋台4台。
宵の口まで雨天だった為、今年は、笠鉾2台は、最後まではお供せず、自町内へ帰ってしまい、残念無念。
団子坂を、最後に曳き上げて来た直後の、勇壮な、本町屋台。
お旅所(お神輿の神幸、各種の神事。)前で、奉納舞いを演じる、中町屋台。上町屋台。
雨も上がり後、ビニールシートをはがし始めた、宮地屋台。
秩父の曳山6台のうち、宮地屋台と・本町屋台にだけは、前面に・階段が設置されて居ない。
お旅所では、お神輿の前で、雅楽調の楽曲が奏でられ、各氏子町内の役員達が、神事に立ち会う。
秩父の曳山の中で、一番古い(江戸時代の製作。)のが、宮地の屋台。前面の・唐破風屋根が最大なのが、上町屋台。
前面の唐破風屋根に施した・彫刻(鬼板と、懸魚。)が最大なのが、中町屋台。
各町内の屋台は、奉納舞いの前後に、見事な刺繍の幕(緞帳。生糸と絹織物の産地らしい。)を、上下に開閉する。
本町屋台の・側面と・背面。引き幕に、達磨さんの刺繍が施されて居るので、通称・だるま屋台とも呼ばれる。
上町屋台の・奉納舞い。
上町屋台の・奉納舞い。全町内共に、少年少女の舞いと、年輩の女性達による・お三味線と・長唄が入る。
上町屋台の・側面。まさしく、「動く陽明門」の形容がぴったり。夢のような、夜祭り・屋台。
宮地屋台。                               屋台4台揃い。                  中町屋台。
本町屋台の、奉納舞いと、緞帳が下ろされた直後の姿。
いよいよ夜祭りのクライマックス、お旅所にて解散し、団子坂を下って、各町内へと「曳き別れ」が始まろうとして居る。
超寒がり・虚弱体質のマキちゃんは、二十数年前の経験上、ここまでの重武装で・防寒(これに、マスク2枚重ねと、手袋も。)。
お旅所から、一台ずつ、団子坂を下って、「曳き別れ」に入って行く、秩父の夜祭りの・屋台。
また来年の冬まで「おあづけ」、名残り惜しい、哀愁を帯びた、「曳き別れ」。
最後の見せ場、団子坂下り。気合いの入る、中町屋台の・男衆。
最後まで残って居るのは、中町屋台と、本町屋台(最後部。)。
上町屋台が、団子坂を下り切ると、拍子木・鈴の音、アナウンス、満場の拍手・喝采・歓声が湧き起こる。
続いて、中町屋台の、坂下り。本町屋台が最後の最後まで、坂上にねばる。
人力のみの巡行なので、安全・安定の為、綱が何本も張られる。
お祭りの終焉は、何処の町でも、淋しく・哀しい・情緒が漂うものである。
最後に、お旅所から、お神輿の行列も、神聖かつ厳粛に、団子坂を下って、秩父神社へと、お帰りになる。
昼間は生憎の雨。宵の口・20時に、雨上がり。深夜〜未明には、満月が浮かんだ。
夜祭りを終えて・数日後の、武甲山と、「ハレ(非日常)」から・「ケ(日常)」に戻った、秩父の街。
夜祭り時には・最高のステージだった、市役所裏手のお旅所は・大駐車場に戻り、こだわりの団子坂は・嘘みたいにさびれた殺風景な・田舎町の景色に戻り後。
秩父の夜祭りを知らない人達には、ここが・最高の見所だったと言っても、信じて貰えそうもない、変わり様である。
戦災にも大火にも遭って居ない・秩父の旧市街地には、レトロな街並みが、今なお残る。
番場町通りには、純日本的家屋よりも、和洋折衷の・大正浪漫的な・レトロな建築が、数多く残る。
明治・大正・昭和初期(戦前。)に、タイムスリップしたような気分に。
夜祭りの鎮守様、秩父神社。                                      秩父まつり会館。
秩父鉄道・秩父駅(西武秩父駅とは別。)。         旧街道に残る、「武甲酒造」の構え(幕末〜明治期の建築。)。
造り酒屋らしい構え、新酒の知らせの杉球、裏手の白亜の酒蔵。
かつての、大規模な・商人宿。現在は、観光名所に。
加藤近代美術館(往年の、絹織物問屋。)。                         横丁へ入ると、懐かしい風情も残る。
往年の豪商宅と土蔵とは、美術館・物産館として、健在。
旧街道筋には、古民家・土蔵・西洋館などが、今なお、しっかり保存・使用されて居る。
夜祭り時には、本町の会所として、開放されて居た、古民家(バス停前。)。平素の姿に戻っても、味のある建物である。
夜祭り時には、紅白幕を張り巡らせて居た、旧家・松本塾。
珍しい・木造四階建ての、旧家。目抜き通りには、遊郭や・芸者屋はある筈は無いので、明らかに商家である。
上州(群馬県。)には・このように・小屋根を乗せた・お蚕農家が多いのだが、秩父の・中心街近くにあるので、おそらくは、下層階は生糸の店舗兼住居で、最上階ではお蚕を飼って居たのだろうか?と思われた。
本当に珍しい、半農半商的な、木造四階建ての、旧家。
格子戸も、しっかり残って居る。
秩父も、ややドーナツ化現象が始まり、駐車場完備の・郊外型の・新市街地が発展しつつある。
私の仮住まい(中心街から、1〜2km程度。ワンルームの個室寮。)の、すぐ目の前に、美容室があるのは、有難く・助かった。
埼玉県秩父市日野田町1丁目-10-17、国道沿い、「(有)サロン・ド・巴里夢」(山野愛子・秩父分室。0494-24-7743)さんの、宮殿風の・昼間の外観と、クリスマス・イルミネーションに装飾された、美しい夜景。
東京仕込みの、イケメン紳士・お洒落・お祭り野郎・ゴルファーの・大先生と、女性スタッフの皆さん(もっと居ます。)。
旅(数ヶ月間の、出稼ぎ。)の者で、飛び込みで入って、通うようになったのだが(必要不可欠なので。営業や勤務店の宣伝目的ではなかったのだが。)、大変に良い方達で、マキの働くお店にも、皆さんでちょくちょく来店応援して下さいました。秩父で、おかま(ニューハーフ。)は珍しいし、期間限定でもあった為か?
クリスマス・イルミネーションの次には、お手製の門松と・凧が、店頭を飾る。
四十の声を聞くと、幸運にも薄くはならないけれど、白髪がふえてしまい、新年初の白髪染め兼お洒落栗色染め&カットの日。液が滲みて、お猿さんの顔になっちゃった、マキちゃん。
フルコース完了後、アラフォー、若返りよ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
ワンルーム寮の目の前は、秩父のシンボル・武甲山。関東にしては、雪の多い、秩父盆地。
野生の鳥も来ます。窓の外の・桑の木の枝には、何と・つらら(樹氷?)が・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
とっても寒い町だけれど、人間性は暖かいので、マキは、秩父が大好きでした。
左手は、秩父・横瀬のカリスマ美容室の先生で、自称オダギリジョーの、同年代の先生。右手は、日野田町の、マキの行きつけだった「巴里夢」さんの、大先生。
大先生による、マキのショータイムのスナップ。
デジカメを託して、スナップして貰った、ショータイム直後の姿の、マキ。
秩父の・臨時ゲイバー(ニューハーフ・ショーパブ。)、マキの四ヶ月公演の・千秋楽日、日野田町「巴里夢」のお局様による、マキの別レパートリーの・ショータイムのスナップ集。
荷造り&お掃除(冬季オリンピックのTVを見つつ。)後、美容室「巴里夢」さんへ、最後のシャンプー&ブローをして貰いに。
あらあら、半月前の定休日に行った時にも、超お洒落で・都会的センスで・美味しい・イタメシ屋さんへ・連れて行って頂いたばかりなのに(新年会?)、今度は(送別会?)・超美味しい・純和風の・割烹料理屋さんへ・御招待して頂いて、感無量・惜別、何て楽しい飲食会。幸福感に浸る、マキ。
マキちゃん、日野田の・お局様、大先生。お祭りばかりではなく、いろんな趣味が合い、話が尽きず、楽しい、嬉しい、美味しい、感謝・感激。
二次会は、皆さん行きつけのスナックへ。横瀬の・カリスマ先生(ダイエットで、目指せ、オダギリジョーが、合言葉。)と、お弟子さん(ピノキオ君。)も、合流して、深夜まで盛り上がる。
夏までは、定期的に前橋と往復しつつ、大好きな秩父で頑張るつもりが、臨時ニューハーフ店自体が・早々に閉店となってしまったので、泣く泣く、秩父をおいとまする破目に。
秩父を去る日も、雪、のち快晴に。タクシーを呼んで、秩父駅へ向かう道々、既に混んで居る「巴里夢」美容室さんに向かって、車内から・幾度も・振り返ってまで・感謝の気持ちで一杯で・会釈を繰り返して居た・古風で・おセンチな・マキちゃんでありました。
秩父駅のホームから望む・武甲山も、見納め。また絶対に遊びに来たい町、大好きだった、秩父(お祭り。街並み。優しい、穏やかな、人情味に溢れた人々。)に、心の中で、お別れと・御礼を述べて、電車に乗り込んだ次第でした。
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