記事タイトル:RB120 |
この掲示板は過去ログですので、追加の書き込みは出来ません。
だいぶ主題からずれてきてしまいました。 例のRC300P改(岩22か853・854)ですが、画像を提供していただいた53様からの情報では, 1968(昭和43)年式と言うことです。[2004年1月11日 21時31分29秒]
いえ、国際興業体制に反発があったと言う意味で言ったわけではありません。 まず事実だけを整理すると,当初「公的一元化」を進めていたものの,県が態度を翻したことにより,「民」 による一元化に方向転換します。そして成立した岩手県交通は,旧3社の共同出資で旧3社の役員という構成 でした。新会社の社長は,旧岩手県南バスの社長が勤めました。 設立1年後の1977年に,早くも国際興業は役員をすべて引き上げます。 しかし,その間にも経営悪化は進み,1978年に旧岩手県南バスの社長は退任。所有していた約70%の株式 も手放します。 新社長には,県から派遣された方が就任します。この新体制の元で,貸切バスの充実などが実施されます。 もっとも,この体制下でも経営が安定していたわけではなく,むしろ悪化の一途をたどります。 そして1986年に,国際興業から社長以下役員を迎えたことにより,「国際興業グループ入り」を果します。 (その時既に国際興業系で70%以上の株式を所有していたそうです) で,恐らく、旧県南バス社長が手放した約70%の株式を北海道いすゞが購入したものと想像します。 私たちが最も分かりやすい車両面に当てはめると,よく分かります。 合併直後は,旧県南バスと旧中央バスの両社の仕様の車両が並行して購入されます。中古車でも国際興業車 が引き続き大量に入ってきます。 これが1978年を境に,県南バス仕様が姿を消し,中央バス仕様に統一されます。もちろんすべていすゞ車 です。 ただし、中古車は1979〜82年の間,元国際興業車が激減します。その理由はよくわかりません。大株主 が北海道いすゞであったけれど,経営陣に国際興業の人がいなかった中途半端な時代がそうさせたのかと想 像しています。 (もっとも1983年以降は,BU06など元国際興業が大量に入ってくるのですが) 先に話題になった三菱車は,深い意味はないかもしれません。 ただ、新幹線リレー特急に急遽車両を必要としていた県交通に対して、国際興業が車両の支援をほとんど行 っていないのが,この時代の国際興業との関係の疎遠さを想像させるのです。[2003年12月29日 23時31分4秒]
県交通成立後国際興業傘下になるまでの約10年は社長が県より派遣される準公営体制だったと 思いますが、むしろバスセンターの国際興業グループ化など依然として影響力はありました。 ただ、いすゞ=国際興業という発想とその反発があったかどうかはどうなのでしょうか。 それなら日野を入れたほうが融通が利きそうなものですが(^^;。 もし隣の宮城交通が名鉄の傘下で再建しなければ県交通は県民バスのまま現在に至ったの でしょうか?[2003年12月29日 0時35分30秒]
こんばんは。 誤解のないように説明しておきますが,国際興業との直接の関係が薄れていたと言うのは,この時期国際興 業出身の役員がいなかったと言うだけの話で,資本関係がなかったわけではありません。大株主は北海道い すゞだったと思われますので。 新幹線リレー特急に三菱車が入ったのは,急に必要に迫られたので適当ないすず車がなかった中で,北海道 いすゞのお膝元の土地から年式の若い車両がまとまった両数出てきたという事なのだと思います。 1982年には,県交通にはまだ相当数の三菱車がいましたので,受け入れるに抵抗はなかったのでしょう。 一方,新車は1978年中からいすゞのみになりました。これは,この時期に大株主が北海道いすゞに一本 化されたからだと思います。 まあ,飽くまでも推定の域を出ませんが。[2003年12月26日 22時21分59秒]
1982年の三菱車というのは、確かに疑問符がつきますね。いすゞの観光タイプがま ったく見つからなかったとは思えないですし。 ただ、国際興業との関係が薄れていたと言われれば、納得できる気もします。もっとも 新車はすべていすゞだったわけで、その点では疑問は残りますが。 入門編、有難うございます。シャーシ編も楽しみにしております。[2003年12月26日 12時39分18秒]
アップ遅れてて済みません。連休明け目標です。 茨城オート車の廃車体,1999年のバスラマの写真の端っこに写っていたので,今もあるのではとかすかに 期待していたのですが,もうないのですか? しかし、サッシ窓になったのは何故なんでしょうね。もちろん新しく見えるという事でしょうけど,ユーザ ー側から「こういう仕様で」と注文したのか,ディーラー側が「こういう仕様もありますよ」と売り込んだ のか。まあ、複数のボディメーカーをサッシ窓にしているので,ユーザー側の意向だと言う想像はつきます が。 ディーラーと言えば北海道いすゞですが,北海道中央バスから十鉄への移籍車と同時に岩手県交通にも同型 車が来ています。更に82年には新幹線リレー特急用に北海道から三菱車まで来ているというのも興味深いで す。 この時期ちょうど国際興業との直接の関係が薄れていたからか,あるいは国際興業からの中古の出物がなか ったからか,岩手県交通ではほかの会社からの譲受車が一時的に増えていました。 色々の真実は,当時の担当者に聞かなければ分からないと思いますが,想像するのもまた楽しいものです。[2003年12月20日 23時1分54秒]
調べたところ、昭和43年式までのデラックスタイプ(メトロ窓、リクライニングシート装備) のほとんどの貸切車に三連式速度表示灯が付いていました。 但し、残存する画像や廃車体の中にはないものもありました(少なくとも乗合経験がある 車両は撤去されていた様子)。 茨城の中古車ですが、釜石かどこかの営業所敷地内に10年位前まで一両残っていた記憶が あります。多分オート車だったのかも知れません。 茨城のユーザがわざわざ二段サッシ窓を採用するに至った理由は何だったのでしょうか。 中古の介在に国際興業(と北海道いすゞ)が関係しているかどうかはこの状況では判断が 付きにくいですね。 十鉄に北海道中央バスが入ってきたのは推測できそうですが(笑)。[2003年12月19日 1時41分51秒]
確かにRC300P改ですね。自分でもどうして「改」を抜いてしまったのか覚えていないんですが、車検証 上の型式より銘板の型式を優先したのでしょうか。多少言い訳じみていますが,BU04Vの「V」などもそう 言うような理由で抜いてあります。もっとも、RC300P改の場合は長さが違うのですから書くべきでした。 それから正面のベゼル形状はおっしゃるとおりの形です。もう一つの特徴として,屋根上に3つの標識灯が 並んでいます。日野のエンブレムはありません。 岩手県交通と埼玉県との関係。秩父鉄道からの譲受車が入った時は,私もリアルタイムで岩手県民でしたの で,かなり驚きました。 もっとも,北関東からの転入車は元々多かったようですね。県交通設立直後の1976年頃には,日立電鉄や 茨城オート、関東鉄道など茨城県出身車が入っています。 国際興業を介してのいすゞ系ディーラーのつながりでしょうか?[2003年12月16日 23時19分58秒]
管理人様 実は大変なことを見落としていたことに気が付きました。 「日本路線バス総合カタログ」にもあるように、短尺車で形式はRC300P改です。 ドア側最後部の窓の長さが判断材料です。 フロントから判断できるベゼル形状ですが、当時は観光バスとしては一般的な左右つなが り型で楕円形が基本です。富士重も帝国も同じベゼルを使用していたようです。 以前何かの出版物に足尾出張所に方向幕、メトロ窓の貸切塗装車が何両か置いてあったの を見た事があります。普通にツーマン路線運用であれば、わざわざこのような車両を配置 する必要はなく、多客時に応援に出る為のものと考えるのが容易かと思います。 ただ、「東武労組30年史」に掲載された写真から方向幕装備の貸切塗装メトロ窓車は日光 に元々いた可能性が高く、「写真で見る東武鉄道80年」にもメトロ窓の車両が写っている カットがあったかと思います。 余談ですが、岩手と埼玉の各事業者の縁は意外にあるようで、近年まで秩父鉄道→県交通 や大和観光(大宮)→岩手観光の車両がいたそうで、国際興業車に隠れた名脇役として記 憶しております(笑)。[2003年12月15日 2時13分45秒]
と言う話をしていたら,53様からRC300Pの前からの画像を送っていただきました。まず間違いないと思い ます。次回の更新の際にアップしますので,診断をお願いします。 それから私が76年に乗った貸切カラーの件ですが,富士重工の1969年までのボディ(R12型)で、後ろに 方向幕のあるメトロ窓車でした。と言うことは足尾車でしょうか? 足尾の「操配目的の車両」と言うのはどのような用途なんでしょう。JRの電車で言う「波動用」というよう なものでしょうか。 ブレブレの写真を何枚か撮ったのですが,その後ろ姿だけは結構上手に撮れていた気がします。もっとも、 フィルムサイズが違っていたため,別のところに置いていたら,何回かの引越しの間に紛失してしまいま した。[2003年12月14日 23時24分5秒]
先日書き込みました群馬県内にある昭和44年式RC300P富士重車体の廃車体を確認しました。 後部ウインカーレンズは三連タイプではなく、一般的な路線仕様と同じでしたので可 能性は極めて高いものと思います。 日光にいた前後路線顔の貸切塗装ですが、当時、日光にいた同タイプは複雑多岐な用途や 生い立ちがありました。 大まかに分類すると多目的用途の貸切塗装をしただけの一般車、定期観光または貸切予備 車、純粋な格下車、そして足尾にいたと思われる操配目的の車両などがあげられます。 もしRE100Pで前後に方向幕を持つメトロ窓車だと足尾車の可能性が高そうです。 足尾は52年から随時中型に代替され、この車両の活躍した記録があまり残っていませんの で貴重だと思われます。[2003年12月14日 1時46分54秒]
岩手県交通のRC300P。残念ながらあの角度の写真しかありません。前からの写真があれば,私も是非見た いと思っています。 それから、その会社の貸切カラーですが、そのカラーなら知っています。1976年に日光へ修学旅行に行っ た時(年齢が分かってしまいますが),そのカラーの貸切車(前後路線顔でした)に乗りました。 次の朝には,青白カラーの前ドア路線車が迎えに来ました。日野車体と富士重工のRE100で,1976年式の 新車でした。ただ,私はこちらの方が嬉しかったんです。と言うのも,日野車体のサッシ窓車はまだあまり なく,乗ったのが初めてだったからです。 この新しさなのに型式が“まだ”RE100なのが、当時の私にはちょっと不可解でした。電車的に考えると, 「RE200」とか「RE300」になってもおかしくないのに,と思ったんです。 この後,バスの型式のつけ方を段々と学んで行ったわけで,私にとっての原点の一つがその会社のバスだっ たのかな,などとも思います。 ちょっとまとめすぎましたか…。[2003年12月13日 21時53分52秒]
広告枠の件ですが一般的な枠をビス止めしたものではなく、車体にレールが直付けになっ ているような状態のものです。 側面塗装車はそのまま塗られる場合が多かったようですが撤去(?)した車両も多くあり ました。 塗装の件はキャブオーバ車で正しいですが、貸切車はもともと違う塗装を持ち、昭和43年 から白地に青三本線と東急にラインが似た薄紫という塗装に変わります。 この辺はそちらの専門ページにいろいろな実例が残っています。 RC300Pですが、確かに疑い深いですね。 前面からのカットがあればライトベゼルも見られますし、その他にももう少し細かいディ テールが分かれば判定できたかも知れません。例えば前ドアの下部ガラスに縦の鉄格子状 の保護棒が付いていたとか....。 リアのスタイルですが、ウインカーが普通のタイプになっていますが、昭和43〜44年式で はどうでしたか....記憶が定かではありませんが、富士重車体であれば廃車体を知ってい ますので後日調査してみます。 昭和46年式が最後の非冷房RC300Pだったと記憶しています。昭和46年式が割合格下げされ 山間部の営業所で活躍していたようですが、昭和43〜44年式も定期観光用途を中心に残存 例があるようです。しかし、ツーマン駆逐によるRB系列の早期廃車と同様に冷房付RV系列 導入前後にこれらの車両が余剰化されていったという可能性もあります。 昭和51年頃と言えばワンマン前後扉(一部では前扉のみ)の導入が一段落し、中型バスが 登場するまでの隙間の時代だったのですが、元急行用車両も老体ながら方向幕を持ち、ま だまだ観光路線で重宝されていたようで、推測ですが元貸切車の活躍の場が少なかったの かも知れません。[2003年12月12日 1時5分13秒]
ご想像の通りの書籍です。今よく見てみたら,その会社の富士重工製の折戸車の写真も近くにありました。 確かに仕様はそっくりですね。メーカーエンブレムがないと言う点には気付きませんでした。廃車体の場合, エンブレムが取られてしまうケースもよくあるので。 広告枠のレールと言うのはどのような形状なんでしょう。通常の場合は,譲渡先でつけ変えられるものと思 われますが。 それと,その会社の旧塗装は,私は現物を見たことがありません。保存されているキャブオーバー車のも のと考えてよろしいでしょうか?ただ、廃車体から見えている色は,あせたせいかちょっと薄い感じです。 実は,私の写真にも,そこからの譲受と思われる車両の画像があります。「岩手県交通」の「中長距離車」 の「日野」の項目の一番上にあるRCです。この車両は1976(昭和51)年の登録です。何かお分かりになれ ば,ご教示頂ければ幸いです。[2003年12月10日 22時44分51秒]
管理人様 突然お邪魔したにもかかわらずお返事をいただき恐縮です。 ご覧になった文献が日本路線バス総合カタログであるなら、帝国車体の函館バスは疑いが 濃厚、富士重車体の県南車はここではありません。 その事業者(北関東....一部の車両は当時国際興業車とすれ違っていたかも知れませんで すね)の当時の標準仕様として側面方向幕が折扉車は扉前位に、引扉車は扉上にありまし た(昭和40年頃まで例外もあります)。またセーフティウインドウは装備せず、車体メー カー以外のエンブレムもありません。 裾が青であるなら可能性が高いと思われます。この場合、ウェーブラインではなく直線と なります。当時の塗装は窓下から裾に向かって幅が広くなる縞々塗装でして、塗装を剥離 せず上塗りした場合、廃車後20年以上経過すると裾の青が露出するケースが多いようです。 但し、車外広告枠の形状が違うなど疑問な部分もあります。当時車体にレールが付いて おり、広告板を直接差し込む方式になっていましたが、これが見当たりません。 奇しくもこの数年来、ここ出身のいすゞ貸切車が国際興業塗装になり、岩手観光から県 交通のみならず秋北や十鉄においても活躍しているようで、時代はめぐるものと感じます。[2003年12月9日 2時9分1秒]
Farewell song様。 情報ありがとうございます。 この岩手県南バスカラーのRB120ですが、参考文献の中に現役時代の写真があり,1972(昭和47)年に岩 手県で登録されていることが分かります。時期的には一致しますね。ちなみに,同書の写真の函館バスにこ れと同型の中ドア折戸車がいました。 そして,実は撮影者の一関市民様から部分拡大写真をもらっていたのですが,車体裾の方が元はブルー(ち ょうど帝国ボディのプレートと同じような色)だった形跡があります。 これは重要なヒントになりませんか? 私が思いつくのは,関東の北のほうの事業者と南のほうの事業者ですが,日野車のその台数から考えて北の ほうですか? なお,岩手県南バスには,富士重工のRB120で中ドア引き戸車が1973(昭和48)年登録で入ってきているよ うですが,これも関係ありますでしょうか?[2003年12月8日 23時41分48秒]
初めまして。 RB120ですが、窓配置から考えて関東の某事業者の中古の可能性が高いと思われます。 この事業者は(確証がないためまだ実名は書けません)昭和38年〜42年までの間、RB10・ RB120・RC10(RC100)を合わせて1000両程導入していた実績がありますが、ワンマン化 推進のため早期、特に昭和46年〜50年に大量の廃車が発生していたことが確認されて います。 なお、この事業者が比較的都市部で使用していた仕様と同じ引扉をもつ同型車両がこの 時期に函館バスに登録されており、こちらももしかしたらという疑問が頭から離れません。[2003年12月8日 1時30分1秒]
と言うわけで,入門編の基礎の基礎をアップしました。 古いバスに興味がある方なら常識と言われてしまいそうな内容ですが,それだけにこれまでわざわざ解説し たものを見たことがなかったので,やってみました。 引き続き,ボディメーカー別の解説などから,作ってみる予定でいます。 年号や型式などは,間違いがないように再確認しながらの作業なので,多少時間がかかるかもしれません。[2003年12月5日 20時42分27秒]
実は私も昔から「けーしき」と呼んでいたので,当サイトでもそう入力して「形式」になってしまっていま す。元々鉄道好きからバス好きに入ったので,仕方ないんですが。すべて直すのも億劫なので,当面そのま まです。 REにはRE161と言うのもあったのですが,あまり売れないので販売中止になったらしいです。 数字が長さを表すのはどのメーカーでも共通でしたが,三菱MRは数字の大小と長さの大小が無関係なので, 理解に苦労したものです。 それでも,今の型式よりも単純で分かりやすかった気がします。 型式の入門編,というか80年代までのバスの入門編,まずは基礎の基礎から始めてみる予定です。とりあ えずは準備をしています。[2003年11月28日 23時51分7秒]
確かに車の車検証でも型式となってますね、また1つ勉強になりました。 今日も(多分)RB120を見つけましたが、RE140ともなると結構長そうです、見てみたいですね 型式の入門ページは楽しみにしています。[2003年11月24日 13時5分40秒]
昔の型式(正確にはこちらです。形式は×)は数字が相対的な長さを表す場合が多いですね。日野もRE100 <RE120<RE140と言う具合ですし。 ただ,これに出力やサスを表す記号が加わるので,単純に外見では判別できません。BU20KPの「K」は高 出力車,「P」はエアサスと言う具合です。 それから型式はシャーシで決まりますが,かつては複数のボディメーカーが架装していたので,見た目が全 然違うけれど型式は同じと言うのがバスでは日常茶飯事です。 そんなバスの型式などを解説する入門ページなどを作ってみようかと思ってはいるんですが、細かい数値は 参考文献丸写しに近くなってしまうので,ちょっと方法を思案しています。[2003年11月22日 20時59分36秒]
こんばんは BU型の形式って長さの違いだったんですか 手元には資料も無く、ネットでしか調べようが無かったので しばらく「何処で形式決まるんだろう?」と悩んでました 解っても素人の私では、見た目で判断は難しいですね。 銘板は車内にあるんでしょうか、それだとちょっと難しいですが 通りがかりに誰か居ましたら聞いてみます 話は変わりますが、予想通り、バス・マガジンは一関では見つけられませんでした[2003年11月21日 20時6分47秒]
疑問の内容がよく分かりました。 まずBUの基本から。短い方からBU05,BU10,BU15,BU20,BU35がありました。1972年にマイナーチェン ジが行われましたが,その中でBU05のみは長さが少し短くなるなどでBU04に名前を変えました。BU06は 低床試作モデルで,BU05よりちょっと長いようです。 なので大まかにはBU10>BU06=BU05=BU04となります。 車両ギャラリーの元国際興業で非常口側を見ると,BU10とBU06では非常口直前の窓の幅が違うのが分かりま す。この辺が長さの違いを表しているようです。 ドア側は,元県南バスBU10Pと青い県南バスBU05を比べると全く同じに見えます。 実は私も小学生の頃同じ疑問を抱いて,手持ちのボールペンで窓の幅を測ったことがあるんです。その時 の記憶では,基本となる窓の幅が,BU10よりBU05のほうが数センチ狭かったんです。狭い窓を同じ数並べ ているので,BU05のほうが最終的に短い,という結論でした。 寸法を測らずに見分ける手段は,最後部の窓の大きさで,BU10のほうが基本窓に比べて最後部の窓が狭く 見えます。「青い県南バス」はまるでBU05と断定したような書き方をしていますが,そう言った外見から の推定です。撮影者の一関市民様に,もう一度銘板などを確認していただく必要もあるかもしれません。 ちなみに,両形式の違いが区別しにくいのは川重のこのボディだけで,富士重工や北村製作所のボディでは 区別は容易になります。残念ながらそれら他ボディの画像は当サイト内にはありませんが…。[2003年11月18日 22時27分13秒]
そうでしたか。BU05がマイナーチェンジでBU04に変わったということですが、 どうして数字が小さくなってしまったんでしょう。今までは短くなったので数字が小さ いのかと捉えていたんですが・・・。 写真を比べてみるとBU10=BU06=BU05>BU04という感じに見えます。 同じ長さで低床とかの種類の違いがあるんだろうかと考えていました。 RC120<RC100という関係も分かりにくいですね。 どうしても数字の大小とバスの(長さや出力の)大小と関連付けてしまうんですが、バ スの形式というのはあくまでも製品の管理番号なので、分かりにくくても仕方ないかも 知れません。[2003年11月18日 12時33分34秒]
こんばんは。 RB120は当時としては路線バスには長すぎるので,あまり普及しませんでした。 昔の形式と言うのは単純なんですが,それ故にバリエーションが増えると破綻すると言う傾向があります。 実はRB10の長さで強力型がRC120なんですよね。RC100より短いのに120なんです。 あとBU05ですが、これはBU04とほぼ同じサイズです。BU05がマイナーチェンジでBU04になったわけですの で。なのでBU10よりも窓半個分くらい短いです。[2003年11月13日 21時19分23秒]
こんにちは。 最近RB120という形式が立て続けにアップされましたね。RB10はよく知ってい たのですが、そのロングサイズがあったとは知りませんでした。そしてその強力型がR C100という形式のつけ方。昔のバスの形式というのは、単純なようで奥が深いです ね。 形式のつけ方といえば、いすゞのBU05というのもBU10とどう違うのか、よく分 からない気がします。BU04とBU10の違いは長さの違いということが一目瞭然な んですが。[2003年11月12日 12時34分18秒]
TOPページへ 当サイトは個人によるサイトです。掲載記事に関して交通事業者等への問い合わせはご遠慮ください。 |