記事タイトル:懐かしいです。 |
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ありがとうございます。 84年まで盛岡にいたと言うと、私と入れ違いで盛岡を去ったことになりますね? 中央バスで路線ごとにメーカーを分けていたことは初めて知りました。 私が撮影できたのは廃車体ですが,中央バスの車番の頭にAとかMとかの記号がありました。 その話を聞くと,Aは青山町でMは盛岡ではないかと推察できます。 81年の西武中古は,私も黒石野営業所に多かったと記憶しています。都市低床が災いしたのか,県交通でも短命でしたが。 岩谷堂急行は話にしか聞いていませんが,県内どこにでも行けるターミナルとしてバスセンターが賑わっていたのは,想 像できますね。 また,懐かしい話を聞かせてください。[2002年7月6日 11時31分0秒]
はじめまして。こんばんわ。ひめかみの森といいます。 私は、84年まで盛岡で暮らしていました。 保育園から小、中、高とバス通学でしたから、中央バスカラーの車体はとても懐かしいです。 小学校高学年の頃、中央バスから岩手県交通へと変わりました。 中央バスの頃は、青山町線系統は三菱、中央線系統は日野、巣子・厨川系統は、三菱・北村 玉山系統はいすず。といった感じではっきりと車種が分かれていました。(車両について詳しくなくてすみません。)また、 国際興業資本が強くなった頃は、国際興業カラーのバスも多く走っていました。私は玉山線沿いで暮らしていたので、ボン ネットバスやツーマンカーに最後まで 乗る機会がありました。今埼玉の飯能で走っているボンネットバスにも乗ったことがあります。 今現役で残っているボンネットバスは、最初の頃、冬に運休となる早坂高原・岩泉線の冬季運行路線、岩洞線を担当して いました。1日1往復、片道100分だったと思います。その後、銭掛線へ回り、新幹線開業時には、まきば号として小岩 井農場まで走っていました。 昭和56年頃は、神奈中バスや西武バスからの中古車も導入されています。特に外山岸・松園線に多かったです。 また、新幹線開業前の盛岡バスセンターはとても賑わっていて、どのホームも長蛇の列。15時代は、岩谷堂(江刺市) 行き、伊保内(九戸村)行きなど今では考えられない行き先の県内長距離バスも発車していました。今は盛岡駅前が拠点ですね。 長々と書いてしまいましたが、これからの展開が是非とも楽しみです。[2002年7月5日 22時0分18秒]
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