北緯40度の風景

一関・平泉周辺


2011年に世界遺産に登録された平泉は、中尊寺、毛越寺、観自在王院跡、無量光院跡、金鶏山が構成遺産となっています。このエリアには、達谷窟をはじめ、衣川村(現奥州市)の衣川合戦場、一関市の厳美渓など、名所旧跡がひしめき合っています。
玄関口となるのは東北新幹線の一ノ関駅で、“その頃”には、朝の新幹線が到着すると、大勢の観光客が駅前広場を埋め、定期観光バスが出発して行きました。また、気仙沼など沿岸部への乗り換え拠点でもありました。

一ノ関駅
1976年
一ノ関駅

撮影:板橋不二男様(一ノ関駅 1976.5.4)

“その頃”1984年
一ノ関駅

撮影:一ノ関駅(1985.8.7)

一ノ関駅前広場で駅舎を入れて写真を撮ろうとすると、大体同じ角度になるようです。
駅舎そのものの大看板や色の違いもありますし、駅前広場に集うバスの色や形の違いも、それぞれの時代を映しています。
1976年にはまだ薄茶色の地味な駅舎で、窓には縦格子が入っています。古都平泉を表現しているのでしょうか。駅前に停車中のバスは、岩手県南バスの「摺沢行」。隣のバス停に行列ができていますが、そちらは6番のりばで千厩、気仙沼方面のりばです。
1985年になると、駅舎の屋上に「古都平泉 中尊寺 毛越寺」という大看板が取り付けられました。バスは「岩手県交通」に変わっています。

2010年
一ノ関駅

撮影:牧場主様(一ノ関駅 2010.11.3)

2014年
一ノ関駅

撮影:長谷川竜様(一ノ関駅 2014.7.13)

次に時代がぐっと進んで2010年。駅舎は綺麗にリニューアルされ、クリーム色とグリーンの爽やかな色合いに変わっています。屋根上看板は2枚に増え、左には「ようこそ一関温泉郷」と、右には「平泉の文化遺産を世界遺産登録へ」との言葉が。
そして2014年。2011年に中尊寺をはじめとした平泉の歴史的遺跡が世界遺産に登録されたため、一ノ関駅舎もリニューアルされ、また茶色系に戻っています。 「世界遺産」浄土の風薫る“平泉”と誇らしげに書かれています。
バスのほうは、国際興業カラーが増えたものの、一関地区にはまだ青と銀色の県交通カラーが健在です。1985年からの3枚とも左端の同じような位置に、県交通カラーの車両が停車してます。

一ノ関駅(定期観光バス)
“その頃”1986年
一ノ関駅

撮影:一ノ関駅(1986.8.24)

1997年
一ノ関駅

撮影:板橋不二男様(一ノ関駅 1997.4.1)

一ノ関駅から出発する定期観光バス。今回は珍しく、“その頃”の私の写真より板橋さんの写真の方がだいぶ新しい写真です。
朝東京を出た東北新幹線が到着すると、大勢の観光客が定期観光バスを目指して降りてきます。
は貸切バスの平屋根車での定期観光バス。後ろには2号車の姿も見えます。窓の中に表示には「義経Aコース」と書いてあります。中尊寺、毛越寺、達谷窟、厳美渓と反時計回りに走るコースです。
は約10年後。「義経号」と書いてあるハイデッカーは、元国際興業の車両で、県交通でも貸切バスとして使われていましたが、最期には定観車となったようです。

岩手県交通一関営業所
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1973年
一関営業所

撮影:板橋不二男様(一関営業所 1973.11.3)

1982年頃
一関営業所

撮影:板橋不二男様(一関営業所 1982頃)

岩手県交通の一関営業所は岩手県南バス時代から、ここ一関市真柴にあります。国道342号線に面し、東北本線と東北新幹線に挟まれた場所で、一ノ関駅から2km弱の場所です。
営業所の統廃合や移転が多い岩手県交通にあって、長期間にわたって同じ場所にある営業所です。設立は岩手県南バス時代の1964年のようです(注1)
岩手県南バス時代の1973年には、ボディスタイルの異なる短尺ワンマンカーが3台並んでいます。後ろの営業所建物は、つい最近まで現役でした。
岩手県交通になって新旧カラーが混在している写真は、1982年式の前ドア車がいますので、1982年以降の撮影です。立ち位置を営業所内側に移しており、左の方に工場棟や給水塔のようなものが見えています。

1982年頃
一関営業所

撮影:大兄貴様(一関営業所 1982頃)

2018年
一関営業所

撮影:一関営業所(2018.10.28)

こちらは営業所の西側(東北本線側)にある工場棟方向を見たところ。
国道側から営業所を見ていると、奥の東北本線をコンテナ列車が通過していきます。県交通カラーと県南バスカラーが同居している時代。奥のほう向かって右の車両はまだピカピカの新車だったメトロ窓車だと思われますので、1982年か1983年の撮影でしょう。
2018年では、国際興業カラーにほぼ統一されていますが、青色の一関市コミュニティバスの姿も見えます。なお、写真右側(北側)にあった営業所の事務所棟は取り壊され、南側に新築移転しました。

1982年頃
一関営業所

撮影:板橋不二男様(一関営業所 1982頃)

2018年
一関営業所

撮影:一関営業所(2018.10.28)

東北本線側にある工場棟には、ボンネットバス弁慶号が待機していますので、これも東北新幹線開業後の1982年以降の写真。県交通カラーで揃えられた貸切バスも、屋根の下に並んでいます。
2018年時点でも工場棟は残されていますが、バスではなく自家用車が置かれています。バス車両も大型化され、車庫には入りきらなくなったのでしょう。

国鉄バス一ノ関営業所
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1981年頃
一ノ関営業所

撮影:板橋不二男様(一ノ関営業所 1981頃)

2018年
一関営業所

撮影:一ノ関営業所(2018.10.28)

フィルムの巻き上げ不足で隣りのコマとかぶってしまっている写真ですが、国鉄バスの一ノ関営業所の位置関係がよく分かる写真なので、あえて掲載させていただきました。国鉄バスの営業所は、一ノ関駅から南へ200mほどの、国道284号線が東北本線をオーバークロスする陸橋の脇にありました。今、前沢行きのローカルバスと、仙台行きの特急バスが待機しています。
私の場合も、岩手県交通一関営業所を見に行く途中に、必ずここも覗きながら歩いて行ったものです。
2018年に行ってみると、そこは新幹線乗り換え用駐車場とJRアパートが建っていました。

岩手急行バス本社営業所
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1981年頃
岩手急行バス

撮影:板橋不二男様(本社営業所 1981頃)

”その頃”1986年
岩手急行バス

撮影:本社営業所(1986.8.24)

やはり一ノ関駅から岩手県交通一関営業所への徒歩ルートの途中にある岩手急行バスの本社。私も”その頃”によく通りましたが、形式写真が撮りにくいのと、貸切バスへの関心が若干低かったせいで、あまり写真は撮っていませんでした。
車庫の写真は1981年式の日野スケルトンが写っているので、1981年以降の撮影。雨上がりの感じから、上の国鉄バスと同じ日、場合によってはその上の岩手県交通(1982年頃)とも同じ日の撮影かも知れません。左2台の三菱車や右から3台目のいすゞ車などは、私もここで目にしていますが写真は撮っていません。
私の写真は、1986年に2代目の日野スケルトンが導入された直後。出庫しそうなのを待ち構えて形式写真を撮ったもの。こういうケースだと往々に中途半端なアングルになるのですが、背景に岩手急行バスの車庫が写っているので、ここで蔵出ししました。

衣川合戦場
“その頃”1984年
衣川合戦場

撮影:平泉町(1984.12.27)

2008年
衣川合戦場

撮影:一関市民様(2008.10.25)

中尊寺から眺めた衣川合戦場を行く東北本線です。
“その頃”は広大な田園地帯を走る風景がいかにも合戦場跡という感じでした。走っている列車は小さくて見にくいですが、旧型客車です。
ところが20年以上経た今、治水事業によりその光景はかなり変わりました。撮影者によると、この時点では下り線(写真の手前側の線路)は新線に変わりましたが、上り線は旧線のままとのこと。旧線を行くEH500牽引の貨物列車は新線の陰に隠れてしまっています。11月16日には上下線とも新線に切り替わったそうです。
なお、線路をオーバークロスしているのは平泉バイパスで、風景をかなり変えています。

達谷窟
“その頃”1984年
達谷窟

撮影:平泉町(1984.12.2)

達谷窟(たっこくのいわや)は平泉町の西側にある洞窟で、坂上田村麻呂に討たれた蝦夷の悪路王がこもったと伝えられる場所です。そびえ立つ岸壁の下に毘沙門堂が立つ光景が印象的。
写真はその場所を訪れたとき、ちょうど発車して行った岩手県交通の路線バスを後追いで撮影したもの。意図してかどうか覚えていませんが、右端に写っているのが達谷窟です。

食堂一休
“その頃”1986年
食堂一休

撮影:一関市(1986.9.24)

2003年
食堂一休

撮影:一関市民様(一関市 2003.9.13)

一関市にあった「食堂一休」。“その頃”でも珍しかったツーマン専用シャーシの廃車体でした。
ここの常連さんだったと言う一関市民様によると,バスの老朽化により数年前に向かい側に移転,バスも撤去されてしまったそうです。
バスのあった場所はご覧のように更地のままです。バスの右奥の赤い屋根の平屋はそのままの姿で残っています。

(注1)
地図・空中写真閲覧サービスの空中写真によると、1962年にバス車庫らしきものが存在するのは、岩手急行バスの場所だけです。しかしこの時点で岩手急行バスは設立されていないので、ここが岩手県南バスの営業所だったと推察します。
また、都南村民様からの提供資料により、現在の岩手県交通一関営業所が1964年に開設されていることが裏付けられました。つまり、岩手急行バスの設立に合わせて旧営業所を同社に譲り、自らは真柴に移転したのだと推察できます。
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80s岩手県のバス“その頃”