涼風に誘われて


第ニ章 ニ日目


1.朝

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二日目の朝。
弘希は日の出とほぼ同時に目を覚ました。フライシートを被せてあるにも関わらず、テントの中は意外に明るい。
おや、と違和感を感じた後で、すぐに思い出す。そっか、昨日からキャンプに来てたんだっけ…。
時計を見ると、時刻は五時になったばかりだ。普段ならば、こんな時間に目を覚ますことはない。
「ふわぁ…」
寝ぼけ眼でシュラフから抜け出すと、弘希は出入り口を開いた。とたんに、冷たい空気がテントの中に流れ込んで来る。初夏とはいえ、やはり朝は涼しい。
弘希は外に出てみた。
外は真っ青だった。雲ひとつなく、どこまでも蒼く晴れた空と、穏やかな海。爽やかな潮風が時おり頬をなでていく。背後の森からは、鳥のさえずる声が聞こえてくる。清々しい朝だった。
辺りを見回すと、大型のファミリーキャンプ用から一人用のドーム型のものまで、キャンプ場のあちこちにテントが設営されているのが見てとれる。まだ陽が昇ったばかりなので、外に出ている人はほとんどいないようだ。
「ふうっ」
弘希は思いっきり背伸びをした。朝の空気を吸い込んで、頭がすっきり冴え渡っていくのが感じられる。
隣を見ると、つばさのテントはまだ静かなままだ。よし、とひとつうなずくと、弘希はテントに戻った。中から携帯用のストーブとロースタイルの簡易テーブルを取り出してくる。取りあえずお湯を沸かさないことには、キャンプ場の朝は始まらない。
しばらくして、
「おはようございま〜す」
つばさがテントからはい出してきた。見ると、ストレートな黒髪の一部が跳ねている。
「やあ、おはよう」
弘希はくすっと笑って答えた。その視線に気づいたのだろう、あ、叫んで跳ねた黒髪を手で押さえると、つばさは恥ずかしそうに微笑んだ。次いで、
「先輩、髪、跳ねてますよ?」
「え?」
弘希は慌てて髪を押さえる。寝起きばなは自分もそうだということが、見事に頭から抜け落ちていた弘希だった。
そんな弘希を見てひとしきり笑った後で、つばさは一旦テントに戻った。中から椅子を取り出してくると、弘希の隣に座る。
さらに五分も経つと、コッフェルの中のお湯が沸いた。
「ほい、っと」
自分のマグカップに紅茶を作ると、隣でコーヒーの用意をしていたつばさのマグカップにお湯を注ぐ。
「ありがとうございます」
つばさは嬉しそうに微笑んだ。朝の清々しい空気の中で飲む紅茶やコーヒーは、また格別にうまい。
辺りを見まわすと、いくつかのテントで人の動きが始まっていた。炊事棟に向かう人もちらほら見受けられる。
「…やっぱり、キャンプに来るとみんな朝は早いですね」
そんな光景を見ながら、つばさがつぶやく。
「だな。キャンプ場だと、朝は鳥の声が意外に騒がしいし、天気のいい日は、日が昇ればテントの中は明るくなるし、ね」
「そういや、まだ六時になってないんでしたっけ?」
「ああ。ほんとはもうちょっと寝ていたかったんだけどさ」
そう苦笑する弘希に、つばさはくすっと笑ってかぶりを振った。
「それはそれでもったいないかもです。こんないい雰囲気の中で起きられるんだもの。朝は早く起きて、この雰囲気をゆっくりと味わいたいですよ」
「ははは、それは違いない」
いかにも同感、と言った様子で弘希はうなずいた。
一杯目を飲み終わると、二人は朝食の準備にかかった。といっても昨夜のような大掛かりなものではない。昨日のうちに買っておいたスパゲティを作って、ベーコンを敷いた目玉焼きを作って、とその程度である。
「じゃ、私はベーコンエッグを作りますから、先輩はパスタの方をお願いします」
「了解」
とうなずくと、弘希はフライパンをつばさに渡す。さっそく二人は調理にかかった。弘希は沸騰したお湯をクッカーに移して塩をひと振り、その後でスパゲティの麺をゆでる。次いで、もうひとつの小振りなクッカーでレトルトのミートソースを温める、という具合だ。
一方、つばさはフライパンに油を敷くと、下地のベーコンを焼き始める。しばらくしたらそこに玉子をふたつ投入。後はお湯を少し加えて蓋を被せる。
「〜♪」
つばさの楽しそうな鼻歌が隣から聞こえてくる。
しばらくして、つばさは蓋を開いた。中を見るなり、うん、と満足そうにうなずく。どうやら、うまく焼けたようだ。さらに塩コショウをひと振り。こちらはこれで完成だ。
「こっちはできましたよ」
とつばさはベーコンエッグを皿に取ると、弘希に渡した。弘希はそれを受け取って自分のテーブルに置くと、
「こっちはもうちょっと、かな」
クッカーに入ったパスタを混ぜつつ、弘希はゆで具合を見ていく。しばらくして、
「よし、こっちも完成」
ゆで上がったパスタを皿に盛り付けて、ミートソースと一緒につばさに渡す。ありがとうございます、とつばさは嬉しそうに受け取った。
こうして、キャンプ場の朝食が始まった。ちなみに、二人の使っているテーブルは、それぞれソロキャンプ用のロースタイルのものだ。広さは40センチ四方程度しかなく、高さに至っては地面から10センチほどしかない。皿を置いたままものを食べることはできないが、それでも食器を直接地面に置かずに済むだけ食事が楽になる。
「…どうだい? まあ、味付けは既製品だからハズレはないと思うけど」
「美味しいです。っていうか、キャンプの朝にしてはちょっと豪華かも」
と、つばさは笑顔でミートソースを食べている。
「どれ、じゃこちらも…」
と、弘希はベーコンエッグに手を伸ばす。それを見たつばさは、心持ち不安そうな顔で弘希を見やった。こちらの味付けは自分の腕にかかっているだけに、やはり弘希の口に合うか気になるのだ。
「…どうですか?」
と、食べ始める弘希に小首を傾げて問い掛ける。
「うん、十分に美味いよ。これなら、朝食はミートソースよりもパンの方が合ったかもしれないな」
「それはよかったです」
つばさは嬉しそうにうなずいた。さして凝ったものではないとはいえ、やはり褒めてもらえるのは嬉しい。
「しかしさあ…」
弘希はふと、食事の手を休めて海を見やった。
「別に何てことはないものを食べてるだけなんだけど、何でこんなにうまいのかな、ってキャンプに来る度に思うよね」
「ですね」
と、つばさもうなずく。
「今日は特に、このシチューションですから。辺りの風景も味付けのひとつなんですよ」
「まったく」
風景とつばさは言ったが、それは必ずしも視覚だけのものではない。今は一人じゃないし、な…、と弘希は内心思った。これがソロのキャンプなら、さっさと食べて風景を楽しむのはその後だ。食べ終わったらいきなりテントを撤収して出発、なんて事もざらである。食事が楽しくなるのは、隣に見知った仲間と過ごしていればこそだろう。
やがて、朝食が終わった。二人はてきぱきと後片付けにかかる。
「じゃ、今日の朝食の後始末は俺の当番、ということで」
「そんな、悪いですよ」
とつばさはしきりに恐縮していたが、
「ははは、そう気にしなさんな。昨日の洗い物はつばさがやってくれたんだしさ。このくらいは俺もやらないと」
と言い置いて、弘希は洗い物を手に炊事棟へ向かった。
炊事棟には、既に何組もの先客がいた。大半は朝食の準備のようだ。まな板や包丁、生野菜などがあちこちで洗われている。
「おはようございます。お邪魔してもいいですか?」
「ええ、おはようございます。そちらをどうぞ」
お互い初対面同士だが、こういう場所では皆気さくになれる。今日は暑くなりそうですね、あなたはどちらから、などと楽しく話をしながら、弘希は洗い物を片付けていく。キャンプ場では基本的に洗剤は禁止であるため、すべて水洗いだ。それでもきちんと洗えば、フライパンなども意外なほどすっきりと汚れが落ちる。
洗い物をすべて終えると、それじゃ、と居合せた人たちに挨拶して弘希は炊事棟を離れた。
サイトでは、つばさが既にテントのフライシートを干して待っていた。彼女の前のテーブル
では、ストーブに乗った薬缶が湯気を上げている。
「お疲れさまでした。お湯沸いてますけど、紅茶、いります?」
「サンキュ」
つばさに食器類の渡して礼を言うと、弘希はテントからフライシートを外しにかかる。晴天だったとはいえ、一夜明けるとどうしてもテントの外には夜露がついてしまう。これを放置しておくと後でカビが生えたり、シートの劣化が早まったりするので、フライシートとインナーは乾かす必要があるのだ。
とはいえ、テントは今夜も使うわけだし、撤収時にはしっかり水気を拭き取るので、これは気分の問題かもしれない。妙にきちんとフライシートを広げていく弘希を、つばさはおかしそうに見つめていた。
それが済むと、弘希はつばさの隣に座った。自分のマグカップに紅茶のパックを入れる。
「はい、どうぞ」
と、つばさがすかさずお湯を注いでくれる。
「ああ、ありがとう」
「どういたしまして」
弘希と目が合うと、つばさはいたずらっぽく笑った。
朝食さえ食べてしまえば、後はテントを撤収して出発するだけだ。
「そういや、今日のスケジュールどうする? 今日はこの辺りを回るってだけで何も決めてなかったけど」
「そうですね…。あ、ちょっと待ってて下さい。地図を持ってきます」
と、つばさは自分のテントから地図を取り出して来た。
「まあ、今日は天気もいいから、ここで一日ぼうっとしててもいいんだけどさ…」
などと紅茶をすすりつつ傍曰する弘希。隣でページをめくっていたつばさの手がふと止まった。
「…それもいいですけど、先輩」
「ん、なに?」
「この時期に、一日じゅう日なたぼっこできる自信あります? 今日は暑くなりますよ」
とたんに弘希は渋い顔をした。もともと弘希は意外に肌が弱く、日焼けすると皮膚が赤くなる傾向がある。加えて、いくら風通しがよく設計されているとはいえ、日が当たればテント内は蒸し風呂のように暑くなるのだ。こんな日に一日炎天下でごろごろしていれば、せっかくのキャンプが我慢大会に変わることは請け合いだった。
「冗談ですって」
そんな弘希を見やってくすっと笑ったつばさは、再びルートの調査に取りかかる。さすがに後輩の彼女一人にそれをやらせて自分はお茶をすすっているのはバツが悪かったのだろう、弘希も地図を取り出してきた。
「まあ、それはともかく、せっかく海まで来ているんですから、海岸沿いをずっと走るのも気持ちがいいかもですね」
「…そうだな、でも、今夜は別の場所に泊まりたいし、この辺りもいろいろ見て回りたいし、ね」
などなど。その日のスケジュールを思うままに決められるのが、旅のいいところだ。こうして地図を見ながらあれこれ行き先を決めていくのは、本当に楽しい。もちろん、その時の気分で行き先を大幅に変えるのも自由だ。
結局、その日のスケジュールを決めるのに要した時間はほぼ30分。その大半は雑談に費やされたと言ってよい。
「…それで、だ」
弘希は地図を指し示した。
「ここを出たら、午前中は海岸沿いをずっと走って、ここの道の駅で昼食をとろう。午後は内陸に入ってこの山を迂回、ここに湖があるから、ほとりにあるこのキャンプ場で今日は一泊。到着はちょっと早くなるけど、ここには入浴施設があるから、お風呂に入れるし、その時間もみておきたいからね。それでどうかな?」
「そうですね…」
つばさは考え込んだ。全走行距離は概算で200キロと少し。昨日に比べれば楽だといえるだろう。
しばらくして、つばさは笑顔でうなずく。
「うん。わたしはこれでいいと思います。泊まる場所さえ決まっていれば、後はいくらでも融通は利きますから。今はこのぐらいで」
「決まりだな」
と、弘希はマグカップの中身を飲み干すと、ニヤリと笑った。
「それじゃ、準備にかかろうか」
「はい」
二人はそれぞれテントの中に戻った。朝食に使った調理器具や、寝るのに使ったシュラフなどを片付けるのだ。といっても弘希の場合、テント内に荷物が散らかる傾向があるため、それらも片付けなければならないが。
それが終わると、片付けた荷物をいったん外に出す。ヘルメット等はバイクの上に、三つのバックはグラウンドシートとして使ったブルーシートの上に。ちなみに弘希は、二つの振分けバックにはそれぞれ調理器具と衣類やシュラフなどを、リアバックにはテントとサンダルなどの外回りのものとガスボンベ等の燃料をそれぞれ入れている。振分けバックはそれで一杯になるわけではなく、途中で食べ物などを買った時に備えて余裕を持たせてある。
荷物の整理が終わると、二人は空になったテントの内外を手拭いで丁寧に拭いていく。夜露がつくのはインナーの外側だけとは限らないからだ。それが終わったら、インナーを畳んで外したポールと一緒にぐるぐる巻いていく。これが終わると、ブルーシートの上には、畳まれたインナー一式と荷物を片付けたバック三つが残るだけになる。
次はフライシートの片付けだ。干してあったとはいえ、フライシートにはまだ水気が残っており、それを直接地面に干したため汚れが付いている。これを水気を拭き取るときに一緒に掃除していくのだ。
「天気がいいと助かるね、こういう時は」
「まったくです」
というのは、雨の日には水気を取ることなどできずに、そのままテントを収納するしかないからだ。つばさのテントはフライシートだけで自立するためインナーの掃除までは雨に濡れずにできるが、弘希のテントはそうではない。そのせいか、雨の日の撤収がいかに気の滅入る作業かは、弘希は何度も身を以って知っている。
もっとも、雨になると分かっていてキャンプに出ることなどまずないのだが。
掃除が終わると、先に巻いたインナーの上からフライシートを巻いて、それを収納袋に入れる。最後にブルーシートの汚れを取りつつ畳めば、後はそれらをバイクに積むだけだ。
こうして、30分ほどで二人の使ったサイトは綺麗になった。すべての荷物はバイクに積まれ、後には分別されたゴミ袋がいくつか。
「さてと…、次はこれだな」
二人はそれぞれゴミ袋を持つと、連れ立って場内のゴミ置き場に向かった。こういう時に備えて、二人はツーリング時に大きなビニール袋をいくつかパックにしてバイクに積んでいる。容量の大小に関わらずビニール袋というものは、ちょっとした時に意外に役に立つのだ。
「意外に少なかったですね」
「まあね、ゴミはなるべく出さないに越したことはないさ」
割り当てられたゴミ捨て場に持ってきたゴミを捨てると、二人は再びバイクの前まで戻ってきた。昨晩は焚き火のセットを使ったため、炭の燃え滓などはほとんど落ちていない。二人が出発すれば、前日ここで誰かが泊まった跡は、バイクの轍だけになるだろう。
「すっきりさっぱり、だな」
弘希は満足そうにうなずいた。自分のいた痕跡を可能な限り消してから立ち去ること。キャンプに来ると弘希はいつもそう心がけている。
「ですね。何かちょっと寂しいですけど」
「それは仕方ないさ。いいキャンプ場はいつまでもいい場所であってほしいし、今日だってこの後ここに泊まる人がいるかもしれないわけだから。旅人のマナーってやつだ」
「ええ」
つばさはうなずいた。もちろんそれは彼女も判っている。何もない所にやってきていい思い出ができたら、後は以前のままの状態にして立ち去るのが一番なのだ。
「さて、それじゃ出発するか」
「ええ。今日も楽しくなりそうです」
笑顔で踵を返す弘希に、つばさは嬉しそうに笑う。
これから、キャンプツーリングの二日目が始まるのだ。




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