涼風に誘われて


第ニ章 ニ日目


2.海岸通り

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朝の陽光に照らされたシーサイドライン。それは、走っていてとても気持ちのいいものだ。
左手には海、前方には穏やかなスロープを描く道。そして背後には昨日越えてきた山が青空に映えている。
最初の下りを越えると、崖はすぐ砂浜に変わった。その脇を海に沿って走る道を、弘希たちは駆け抜けていく。
吹き付けてくる風には、少しだけ潮気が混じっている。山を越えてきた昨日は緑の気配があったが、今日の空気はそれとは違う。走っている最中にこれを味わえるのが、クルマ旅との大きな違いのひとつだ。
”意外にワインディングですね”
すぐ後ろを走るつばさから、苦笑混じりの声が入る。地図で見たときにはほぼ一直線の道だったはずだが、実際に走ってみると、細かいカーブや昇り下りが思った以上に多いのだ。もちろん、減速するほど急な場所は少ない。
「まあ、そこは、な。地図で見た道路なんて、あまり宛てになるものでもないさ」
弘希はニヤリと笑った。確かに、地図を見ただけでカーブの曲がり具合や道路の高低差まで見分けるのは難しい。国道だから立派な道路だろうと思って行ってみると、そこが中央線もない狭い道路だったなんてこともある。
それで一喜一憂するもの、またバイク旅ならではのことだ。
休日にも関わらずまだ朝も早いせいか、走っている車は少ない。対して、見かけるバイクは半数以上がキャンプ仕様だ。どうやら、海岸に沿って点々とキャンプ場があるらしい。海水浴場に至っては言わずもがなだ。
「なんか、失敗したかなあ…」
海岸線に沿って延々と続く砂浜を眺めつつ、思わず弘希はそうつぶやいた。
”? 何です?”
「いや、水着を持って来ればよかったかな、と。この辺りは水も綺麗だし」
あはは、とインカムを通してつばさの笑い声が響いた。海水浴をする予定がなかったため、二人は今回水着を持ってきていない。けれども、青空のもと、夏の日差しと潮風を受けて海を眺めつつ走っていれば、海に入ってみたくなるのも道理といえば道理だ。
”気持ちは分かりますけど、それはまあ、夏休みの楽しみ、ということで。第一、ツーリングと一緒にやったら夜がめちゃめちゃ疲れちゃいますよ?”
「それはまあ、ね。荷物が増えるのもアレだし」
とはいうものの、弘希たちは二泊三日の旅に備えて、着替えと一緒に入浴道具を持ってきている。そこに水着が加わったところで大したことはない。
所々にある海水浴場には、必ず駐車場がある。止まっている車は地元の海水浴客だろうか、まだ早朝ということもあって、その数はさほど多くはない。
しばらく走った後で、弘希たちはそんな駐車場のひとつにバイクを止めた。


バイクを降りたつばさは、さっそく防護柵に寄りかかって海を見やる。
「ふうっ…」
防護柵の向こうには真っ白な砂浜、その先には、はるか沖合いまで遠浅の海が続いている。あとニ時間もすればここも海水浴客の車で埋まるのだろうが、今は寄せては返す波の静かな音が響くだけだ。この景色を見ているだけで、
「ほい、つばさ」
その声に振り返ったつばさに、弘希は自販機で買ってきたコーヒーを渡す。ありがとうございます、とつばさは笑顔で受け取った。
「夏の海なのに、何かすっごく綺麗ですね…」
「ああ、確かに」
弘希はつばさと並んで防護柵に寄りかかった。海を眺めながら、手にした缶紅茶のフルトップを開ける。
「朝早く出てきたからね。まだ誰もいない海を独り占めってやつだな」
「ふふっ、今は先輩と一緒ですけどね」
言葉尻を捉えて、つばさはいたずらっぽく笑う。
「違いない。じゃ、二人占めだ」
これは一本とられた、とばかりに弘希は苦笑した。
大体、海水浴シーズン中の海は、オフシーズンに比べると水が濁っている。夏と言いつつまだ梅雨の明けていない今なら、天気のいい日でも前日に降った雨のせいで海が濁ることも多い。二人の地元でも、今は春や秋ほど海は澄んでいない。
けれども、ここの海は綺麗だ。遠浅の海岸の遥か彼方まで、底を見通すことができる。見渡す限りの青空の光を受けて、海も鮮やかな蒼に染まっている。
空と海の蒼、そして砂浜の白、これだけが映える景色だ。
「先輩は…」
と、つばさはひと口コーヒーを含んだ後で弘希を振り返った。
「先輩は、山と海、どちらが好きですか?」
「え、俺かい? そうだなあ…」
弘希は考え込んだ。
「まあどっちがって事もないんだけど、今は海、かな」
「今は?」
「ああ。こういう景色を見てるとさ、ビーチパラソルを立てて、その下で一日じゅう寝っ転がってるってのもいいな、と」
つばさはくすっと笑った。
「随分と怠惰な時間の過ごし方ですねえ。泳ぐとか遊ぶとかいう発想はないんですか?」
「ないな。この時期に何でそんな暑苦しいことを」
弘希はきっぱりと言い切った。先刻水着を持ってくればよかったと言った本人の台詞とはとても思えない。つばさはあはは、と大っぴらに笑い声を上げた。
「まあ海に限らないけど、湖とか大きな水辺が近くにある場所だと、…そうだね。でも、これが山だとそうはいかない。たぶん、必ず何かしてると思うよ。何もしないで、横になってるってシチュエーションがぴったり来ないんだ」
「う〜ん…」
つばさはふと頭の中で、山にいる自分を思い浮かべてみた。確かに、山を目の前にしたり山の中にいたりすると、そこで寝ているのは何かしっくり来ない。それはそれで、心が癒される情景ではあるのだが。
「まあ、それは、目の前の風景にどれだけ変化があるのかって事なのかもしれないけど」
「変化、ですか?」
「そう、色とか、音、それに匂い、そんなものかな。山は、緑や花や土があって、風景が変化に富んでるし、それがどんどん移り変わっていく。動いていくものが目の前にあって、そういうものから受ける、刺激があるんだ。それに対して海は…、ま、ご覧のとおり、かな」
つばさはうなずいた。海にも波の動きがあり、潮風の匂いもあるのだが、見ているだけではそれを変化と捉えるのは難しい。こんな日は、基本的に海と空の蒼、そして寄せては返す波の音と潮の香りが五感を支配する世界だ。
「後は、周りにいる人たち」
「?」
「大体、山に来て一日じゅう寝っ転がっている人なんて見たことないだろ?」
思わず、つばさはくすっと笑った。真面目に聞いていればこの始末だ。どうやら本人は冗談を言っているつもりはないらしいのだが。
「先輩ってば…」
「何でそこで笑うかなぁ…」
弘希は気分を害されたらしく、顔をしかめた。そんな弘希を見ていると、どうにも笑いが収まらない。
ひとしきり笑った後で、
「随分人に流され易い性格なんですねぇ、先輩って」
「言うなよ、自覚はあるんだから」
「あはは…」
そこまで言うか、とつばさはからからと笑った。波の音に被さるように、つばさの朗らかな笑い声が朝の砂浜に響いていく。
弘希は苦笑しつつ、海を眺めながら紅茶を飲む。やがて、二人の缶が空になった。
「…さて、じゃ出かけるか」
「ええ」
二人は再びバイクに乗った。午前中は、このシーサイドラインをまっすぐ走る予定だ。
暑いながらも、気持ちのいいツーリングになることだろう。
 



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