涼風に誘われて


第一章 一日目


3.正午

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「ふうっ…」
弘希の隣にバイクを停めてヘルメットを脱ぐと、つばさは大きく息をついた。いくら途中で何度か休憩を入れたとはいえ、さすがに半日に渡って山道を走り続けるのは疲れるようだ。
もっとも、その辺りの事情は弘希も大して変わらない。
「ご苦労さま。疲れた?」
と、同じくヘルメットを脱いだ弘希の問い掛けに、つばさはニコッと微笑みを返した。
「ええ。ほんの少しだけ。でも、ほんとに走り易い道でしたね。クルマも少なかったですし」
ああ、と弘希はうなずいた。
「梅雨真っ盛りにしては天気もよかったからね。カーブもそんなにきつい所はなかったし、森の中を走るのは久しぶりだったから、ほんとに気持ちよかったよ」
「途中の景色も綺麗だったし?」
そんなつばさのいたずらっぽい声に、弘希はからからと笑った。
「違いない。さ、お昼を食べに行こうか」
弘希はそう促すと、つばさと連れ立って食堂に向かった。
食堂に入ると、弘希は中を見回してみた。見ると席の2/3ほどが埋まっている。土曜日ではあるが、混み具合はほどぼとのようだ。
「さて、と…」
いい席はないかと捜してみると、ちょうど窓際の席がひとつ空いている。よし、とうなずくと、後ろでメニューを物色しているつばさを振り返った。
「まずは席を取ろうぜ。ほら、あそこなんかどうだ?」
ええ、とつばさは嬉しそうにうなずく。二人は窓際に席に向かい合って座った。
峠の道の駅にある食堂は、概して見晴らしのいい場所に建てられている。この食堂から見る景色も、その例に洩れず素晴らしいものだった。
「へぇ…」
昼食の注文が済むと、つばさはふと窓の外を見やって感嘆の声を上げた。快晴の青空のもと、眼下に広がる山並みがはるか彼方まで遠望できる。
「ここ、標高どのくらいでしたっけ?」
そう尋ねるつばさに応えて、弘希は持ってきた地図を広げた。ツーリング用の地図であるため、観光案内よりも道路事情に詳しい。道の高低差などもすぐに見てとれる。
「だいたい1500メートル、ってところかな。ここのすぐ近くに山頂があるんだが、そこまでは徒歩で30分くらいだそうだから」
と、弘希はつばさの前に地図を広げてみせる。
つばさは地図をのぞき込んだ。
「このあたりでは一番?」
「そうだな。ここはたしかに山が多いけど、1000メートルを超える山はほとんどないようだし」
「それでこんなに見晴らしがいいんですね…」
と、つばさは再び外に目を向ける。
「ちなみに、どのあたりまで見渡せるんでしょう?」
弘希はそれに答えずに、広域地図の載ったページを開いた。その上に手をかざすと、コンパスで円を描くようにぐるっと指を回す。地図上では直径数センチだが、実際にはその範囲は200キロをゆうに超える。円の西側は、海岸を通し越して先まで伸びていた。
「こんな感じかな」
つばさはくすっと微笑んだ。
「海まで見えちゃうんですね。道理で見晴らしがすごいわけで…」
「まあ、理屈のうえでは、ね。実際にそこまで見える日なんて、そう多くはないそうだし…」
ほどなく、注文した料理が運ばれてきた。これからさらに150キロちかくを走るとあって、二人ともパンを主食とした軽食を注文していた。あまり食べ過ぎると、午後から眠くなるのは請け合いだからだ。
「残りはどのくらいですか?」
昼食をとりつつ、つばさがそう尋ねた。
「…そうだなあ。途中でかなり休憩を取ったからここまで来るのにこれだけ時間がかかったけど、実のところ150キロ走ってないんだ。往路がだいたい280キロだから、残りはたぶん、130〜140キロぐらいだと思う」
「それを4時間少々で?」
「ああ。ここから海まではほぼ一本道だし、途中に大きな街もないから、かなりのスピードで行けると思うよ」
「休憩はほぼなしになりますね…」
つばさはため息をついた。ここまでの旅程と同じだけの距離を2/3の時間で走らされるとなれば、ため息も出ようというものだろう。
「そう言いなさんなって」
弘希はくすくす笑った。
「ここからはずっと下りだし、傾斜もさしてきつくない。別に四時間で走らなきゃいけないなんてこともないわけだし、途中で疲れるようなら、いくらでも休憩を取ってくれても構わないさ」
「でも、夕食の材料も買い込む時間も見込んで走らなきゃいけないわけでしょ?」
「まあね」
と、弘希はうなずく。
「それは確かにそうだけど、日没は七時過ぎだ。遅くとも六時くらいまでに街に着ければ全然問題はないよ」
弘希の言うとおり、七月のこの時期の日没はかなり遅い。空が完全に暗くなるのは午後八時を過ぎてからである。梅雨に入る前は五時までにキャンプ場に入らなければいけなかったが、それに比べるとだいぶ行動時間が伸びていた。
「まあ、それなら…」
安心したようにうなずくと、つばさは再び食事にとりかかった。
「そういえば…」
とつばさはふとつぶやく。ん、と弘希は彼女を見やった。
「先輩は和食党でしたっけ?」
「え、俺かい? そうだな…」
弘希はふと考え込む。ややあって、
「いや、そうでもないよ。普段の朝食はいつもパンだし。でも、別にそれでなきゃ嫌ってことはないし。まあ、そうは言うけどさ…」
ふと、弘希のパンをちぎる手が止まる。箸を使わない洋食であっても、食べながら話すというのは、何ともやりにくいものだ。
「?」
「いや。でも日に一食はご飯がないとダメかも」
あはは、とつばさは笑った。
「日本人ですねえ」
でもわたしも同じかも、とつばさはいたずらっぽく肩をすくめた。彼女にしても、米なしで三食過ごしたという事はあまりない。パンとお握りのどちらかを選べと言われたら、間違いなくお握りを選ぶだろう。
そうこうしているうちに、二人は昼食をみんな食べ終わった。食後のアイスコーヒーと紅茶が運ばれてくる。
「もう暑い季節なのに、ホットなんですね」
紅茶を飲む弘希を見やって、つはさはくすっと笑った。
「まあね、アイスティーだと、香りがとんでしまう事も多いからさ」
とかなんとか。100パーセント嘘でもないのだろうが。
もちろん、つばさもその辺りのことはちゃんと判っている。
「で、本当のところは?」
「ティー・カップで飲みたいから。グラスだと雰囲気出ないし」
「あはは」
妙なところで紅茶にこだわる弘希だった。
かく言うつばさも、アイスコーヒーに砂糖とミルクをだぼだぼ入れている。彼女曰く、ブラックでは苦くて飲めないのだそうだ。
見事に色の薄まった彼女のアイスコーヒーを見やって、
「カフェ・オレにすればいいのに」
「そこはほら…あれです」
あれって何だよ、と弘希は笑った。ふと、お子様という言葉が頭に浮かんだが、さすがに口にはしなかった。ブラックだと苦くて飲めないのは弘希も同じである。
しばらく談笑した後、二人の飲み物が無くなった頃を見計らって、弘希が出ようか、レシートを持って立ちあがった。つばさもひとつうなずいて後に続く。
勘定を済ませると、二人はレストランを出た。夏を間近に控えた日差しが眩しい。
「さて、と」
弘希はバイクの跨ると、ヘルメットを被った。
これから、往路の残り半分が待っている。



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