2010年10月27日 |
2012年6月情報追加・加東市「道の駅とうじょう」に義経伝説パネル登場 |
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源平合戦といえば一の谷、そして屋島に壇ノ浦。でも一の谷合戦の前哨戦である三草山合戦はいまいちマイナー?ましてや京都→三草山までの進軍ルートが脚光を浴びることなんてまずない。それを今回あえてたどってやろうというのです。史跡はあるんです、ちゃんと。ちゃんとというか、一応というか、かろうじてというか…。京都府・亀岡市から兵庫県篠山市→加東市をつなぐ国道372号線がおおよそ義経が通ったとされる古くからの街道で、篠山街道、デカンショ街道、一部では義経街道とも呼ばれています。この街道沿いに義経の進軍にまつわる史跡が点在しています。その点をたどりながら一日がかりのドライブを敢行。丹波路はひたすら山の中。山、谷、山、谷のアップダウンの激しい道のり、これを人馬で越えていくのは相当ハードだったはずです。誰もが知ってる派手な合戦だけではなくこういう地道な苦難にも思いを馳せ、そして今にも忘れ去られそうな地味な史跡もちゃんと見つけてあげながら(泣)、ドライブあんまり得意じゃないけどがんばって巡ってまいりました。 今回は範囲が広い上、場所がわかりにくい史跡が多いので各史跡に地図リンクをつけています。各項ののマークをクリックしてください。縮尺を変えたり航空写真に切り替えたりして現地イメージの参考にしてみてください。 また史跡の見つけにくさ、義経ファン的必見度などを独断と偏見で五段階★評価をつけてます。あくまでも私個人の感想なのでアテにしてはいけません。 |
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京都府・JR亀岡駅 |
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那須与市堂 篠山方面に向かう国道372号線に乗る前に、まずは亀岡駅から府道6号線を南へ向かいます。「下矢田」の交差点を過ぎてしばらくすると右手に「那須与市堂」という案内板が見えます。ここは法楽寺という安倍晴明が建立した寺院の旧跡で、那須与市にまつわる伝説が残されています。義経軍に従軍していた那須与一はこの地で突如病にかかって動けなくなりますが法楽寺に祈願したところたちまち快復し、さらにこの本尊の霊符を携えていたため扇の的の武勲を立てることができたのだとか。その後与市は出家し、阿弥陀如来を信仰しこの法楽寺を再興したといわれています。案内板の先には法楽寺山に続く参道があり、境内には那須与市供養塔もあるそうですが、今回は時間がないので案内板をチェックしたのみ…。 発見難易度★★(★が多いほど見つけにくいと思ってください)府道6号線沿いなので案内板は見つけやすい。 駐車スペース・なし 見ごたえ度・境内のほうまでちゃんと見てないのでパス |
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若宮神社 国道372号線に乗っていざ篠山方面へ!まずは「義経の腰掛岩」がある若宮神社へ。亀岡運動公園を過ぎ右手に「稗田野神社」の入り口が見える交差点(信号あり)を左折します。そこから細いアスファルトの農道をまっすぐ進み、「近畿自然歩道」の標識が見えたら案内の通りに右折、しばらくすると民家の間に若宮神社の入り口を示す標識が見つかります。(写真上参照) 寿永三年二月一日、一の谷に向かう義経はこの地に立ち寄り、若宮神社で必勝祈願したところ、寒風に吹かれて絵馬が「カチカチ」と音を立てたので、これぞ「勝ち」のお告げと勇んで出立したといわれています。 発見難易度・★★★★案内板は国道沿いには皆無。現地付近は民家が密集してて見通しが悪い。 駐車スペース・境内にあり。でもその境内への入り口がわかりにくい… 見ごたえ度★★★★★義経の最初の立ち寄りスポットなので要チェック。 |
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義経腰掛岩 若宮神社から林の中のイノシシ除けロープが張られた山道をしばらく歩くと、義経が腰をかけて休んだといわれる「義経腰掛岩」があります。京の都を発った義経が最初に休んだのがこの地であるといわれています。 発見難易度★★若宮神社にさえたどり着ければあとは案内板の通りに。でもイノシシ除けロープをくぐらないと入れない場所にあるので面食らう。 見ごたえ度★★★★★史跡めぐり本などにもよく載ってる、義経史跡としてはメジャーな史跡っぽいのでぜひ押さえておきたい。 |
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那須与市堂(瑞祥寺・ずいしょうじ) 若宮神社を後にしてしばらく延々と372号線を篠山に向けて走ります。湯の花温泉街を抜け(温泉街を通る道は372号線と分岐しているけどすぐ合流するのでこっちを行ったほうが走りやすい)、京都府と兵庫県の県境にある天引トンネルを抜け…。372号線は基本的に道路状態も良く混雑もなくスイスイと走りやすいルートです。天引トンネルに至る前の一区間だけ、何かの悪ふざけのようなガタガタくねくね道があるけど。(「南八田」の交差点を過ぎたあたり) 「小野新」の交差点で右折、いったん372号線を外れて綾部街道(国道173号線)を北へ向かいます。しばらく進んでいると右手に「井串」のバス停と那須与市堂の案内板が見えます。この地にはまたもや那須与市伝説があります。亀岡市で病気にかかり霊験によって快復した、はずの那須与市はこの地でまたもや?腹痛に見舞われます。与市…。なんでそんなちょくちょく倒れるの。ともあれこの地の瑞祥寺(当時は観音寺)の観音菩薩に祈願したところたちまち全快したといわれており、それが縁でこのお寺には与市の分霊が祀られています。合格祈願や中風封じにご利益があるそうで、境内のお堂には弓矢と的の描かれた、いかにも与市らしい絵馬が多数掛けられています。 発見難易度★★★道沿いに大きな案内板は立ってるものの、瑞祥寺への道順を示す標識等は特にない… 駐車スペース・付近にはないので国道沿いの「ささべマート」(空き店舗?)の駐車場を利用させてもらった。 見ごたえ度★★★与市人気と与市(病弱)伝説の分布に興味がわいてくる。 ※航空写真のほうが見やすいです |
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剛山(こうやま/ごうやま) 瑞祥寺を後にして「丹波細工所」の交差点を左折、今度は県道702号線を篠山方面に向けて走ります。どんどん進んで篠山東中学校前まで来たあたりで左手に目をやると、なだらかな円錐型の山がみえます。「剛山」と呼ばれる361mの山です。二月四日、義経軍はこの山のふもとの泉村にたどり着きます。ちょうど寺講の日だったので寺に集まっていた村人たちが食事をふるまい、それを喜んだ義経はこの山を寺講にちなんで「講山」と名づけ、やがて「剛山」の名で親しまれるようになったそうです。 発見難易度★★★ 見ごたえ度★★★知らない人が見ればただの山、でも義経ファンにとっては義経がもりもりゴハンを食べた場所。 |
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笛吹山・笛の薬師 「泉」の交差点をさらにどんどん西へ進むと篠山市街地へ入ります。「河原町三差路」の交差点を右折して県道544号線を北へ進むと「城北」交差点があります。この交差点の北側にあるのが鳳鳴高校で、その裏手に位置する山が「笛吹山」。進軍途中、この山麓の瑠璃寺に参詣した義経が薬師堂の松の枝に横笛をつるしておいたところ風が吹いて笛が妙なる音を奏で始め、さらにはその笛の音に合わせて東の谷から鼓の音が聞こえてきたので、山を「笛吹山」、谷を「太鼓谷」と呼ぶようになったとか。戦を前に殺気立っているはずの義経軍にこんな風雅な伝説があったなんて! 写真上が笛吹山の瑠璃寺跡、写真下はそこから少し東に行った場所にある薬師堂で「笛の薬師」と呼ばれています。 発見難易度★★★★★まったく!何の!案内板もないのでひたすら地図とにらめっこ。 駐車スペース・特になし(笛の薬師の近くには遊具のある小さい広場があるが…) 見ごたえ度★★義経ゆかりの地を示す何の看板も記念碑もないのでひたすら逸話を脳内で再現する。 笛吹山・瑠璃寺跡 笛の薬師 |
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鷲尾三郎屋敷跡・慰霊塔 「城北」交差点から県道544号線をしばらく北に進むと「鷲尾」の集落に入ります。その名が示す通り、ここは一の谷合戦で義経軍の道案内をしたとされる鷲尾三郎の出身地。実は神戸市北区にも同様の伝説があるんだけど…どっちが本当とかヤボなことは言うまい。現在の鷲尾公民館周辺が鷲尾屋敷のあった場所で、山と田んぼのきわに鷲尾三郎の供養塔と屋敷跡の案内板があります。 丹波路を駆ける義経は鵯越への道案内としてこの鷲尾村の若者を家臣に加えます。義久の名を与えられた十七歳の若者はその後義経に忠誠を尽くし、平泉で主従ともども討死を遂げます。そののち遺骨が郷里に届けられ、別説では芦の矢となってこの地に飛び帰り、村人によってねんごろに葬られたといいます。 あっ…。供養塔が倒れてる…!(泣)起こしてあげてー!誰かー!でもマイナー史跡のわりには案内板も石碑もまだ新しく、鷲尾三郎伝説を今後も受け継いでゆこうという気概が感じられて義経ファンとしては嬉しい史跡。なので、とりあえず一日も早く供養塔を起こしてあげてー! 発見難易度★★★★鷲尾公民館さえ見つけられたら大丈夫。現地には案内板があるがそれまでは一切なし。 駐車スペース・特になし 見ごたえ度★★★★★義経の郎党が大切にされてるのは嬉しい! |
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★続報★12月1日再訪問
供養塔は無事きちんと起こされてました!よかった〜〜♪ |
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伊勢三郎供養塔…までの道のり 篠山市内にはなんともうひとりの「三郎」、伊勢三郎義盛の供養塔もある!いったん「城北」の交差点まで戻って県道301号線を西へ。篠山産業高校を過ぎたところで右手に写真上のような案内板があります。(「かわはら鍼灸接骨院」の道向かい)その交差点を右折、農道をずーっと進んでいって突き当たりを右に曲がったところに、写真下のような案内板と木の階段がみえます。 写真上・篠山産業高校横の案内板 写真下・供養塔前の案内板 |
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伊勢三郎供養塔 木の階段をのぼりつめたところに写真上のような御堂があります。特に案内板もないのでここが伊勢三郎の供養塔かと思ったら、違う!供養塔はさらにこの奥の山道(写真中)の杉林の中。道の先にみえているイノシシ除け扉のカギ(ひっかけるだけの簡易なもの)を「いいのかな〜」と外してビクビク入っていかないといけません。扉を抜けたら左に向かって少し歩きます。すると山の斜面沿いに写真下のような供養塔があります。これは本当に見つけにくい。県道沿いの案内板や木の階段のあたりまではすごく丁寧にナビしてくれてるのに、御堂から供養塔への案内が一切ないのはいただけない。もう一息がんばって!篠山市観光課。 それにしてもなぜこの篠山の地に伊勢三郎の供養塔が…?一説によると鎌倉に追われる身となった義経主従が畿内を転々としていた頃、篠山出身の家臣(鷲尾三郎?)のつてでこの地の修験者達にかくまわれていたことがあるそうで、その間に伊勢三郎が亡くなったため、また他説では衣川での戦死の報を聞いて、村人が供養塔を建てたといわれています。三郎、愛されてる!市内の東と西でそれぞれ対をなすように義経郎党ダブル三郎の供養塔があるなんて嬉しいではありませんか。 ちなみにこの塔、昔は徴兵逃れや戦死除けにご利益があるといわれ参詣者が多く訪れていたそうです。自由人で抜け目のなさそうな伊勢三郎にあやかった? 発見難易度★★★★★供養塔は知らずに来た人は十中八九、いや十人が十人見逃す。 駐車スペース・特になし 見ごたえ度★★★★★義経の郎党が大切にされてるのは嬉しい!パートU。 |
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篠山市内 丹波篠山は一の谷合戦の際に義経軍が通過した…だけでなく、その後も逃避行に立ち寄ったり郎党の出身地だったり、何かとゆかりがある土地のようです。、篠山市内だけで三十以上の義経関連史跡があるそうで、現在調べまくってますがとても調べきれん。篠山市に問い合わせメールしたけど未だお返事ありません。時期的に黒豆収穫するのに必死で他のことなんかかまってられるか状態だったのだと思うことにしておきますが、せっかく史跡があるんならもうちょっとPRがんばってくださいよ。案内板も立ててくださいよー。 篠山城をランドマークとする篠山市内は観光地として人気のエリアで、特に秋の頃は味まつり等でにぎわってます。さまざまなイベントが催され市内や沿道には黒豆や秋の味覚の販売所が設けられているので史跡めぐり以外でも楽しめます。ただ黒豆買うのに夢中になって本来の目的を見失うおそれがある。 写真上は篠山市内のお土産物が揃う大正ロマン館。物産はやはり黒豆を使ったものが圧倒的に多いです。一歩外に出ればビルから飛び出す巨大イノシシ(写真中)。こと黒豆とイノシシに関しては異様なテンションをみせる篠山市です。しかし義経関連のオミヤゲは…皆無!なんで〜〜?作ろうよー!イノシシも黒豆もなんだか義経を思わせるキーワードだし。(イノシシ→猪武者/黒豆→クロウ豆)今ある在庫をちょっといじるだけでいいんです。黒豆キャラやうりぼうキャラ(写真下参照。豆しば…ではないようだ)に兜の鍬形をつけて「クロウ豆義経」「イノシシ武者義経」等の文字を入れるだけでいいんです。超安上がり。そんなものでも(「そんなもの」言うな)義経ファンは喜んで買うんです。何とぞっ!お願いしますっ!!! |
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小枕(こまくら)・春日神社 篠山市内を後にして、国道372号線に戻ります。「小枕」という交差点沿いの小枕公民館の奥に鎮座する春日神社には義経の逸話が残されています。この地を通りかかった義経の馬が急に震えだし振り落とされそうになったので、下馬してこの神社に参拝し鞍と馬具を奉納すると馬は再び歩み始めたそうで、その時の鞍が今も義経奉納の馬鞍として神社に伝わっているそうです。 「小枕」という地名はこの時のエピソードにちなむもの。もともとは「駒鞍」という字でしたが画数が多くてめんどいので今の字(小枕)になったとか。そんな情けない理由でいいのか。 史跡到達・発見難易度★小枕の交差点から神社が見えている。 駐車スペース・小枕公民館。でも車止めロープが上がってることもあるので注意。 見ごたえ度★★★★篠山の義経伝説のなかでは一番有名?でも境内の案内板等にその伝説が載ってないのが寂しい。 |
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馬口池(ばくちいけ) この小枕交差点から少し東に戻った国道沿いには「馬口池」という、義経軍が馬の口を洗って休息したといわれる池があります。何の表記もないので見つけにくいですが…。国道沿いの路肩に「現地案内所」と書かれた白いコンテナがあるのでそれが目印。でも何年も前に打ち捨てられたっぽい無人コンテナなのでいずれ撤去されるかもしれない。 史跡発見難易度★★★国道沿いなので場所さえわかればすぐわかる。がわかってても通り過ぎてしまいがち。 駐車スペース・「現地案内所」コンテナ付近 見ごたえ度★何の案内板も記念碑もない… |
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鞍懸山(くらかけやま) 小枕交差点から国道372号線を少し進むとほどなく右手に大きな工場がみえ、その先にある道沿いの小高い場所は「鞍懸山」と呼ばれています。ここには小枕の伝説の別バージョン?のような逸話が残されています。小枕の社の前を乗馬したまま義経(もしくは一人の兵)が通過しようとしたところ身体が震え落馬してしまったので、この小山に鞍を懸けて非礼を詫び、無事通り過ぎたといわれています。 史跡発見難易度★★★上記のとおり。 駐車スペース・なし 見ごたえ度★何の案内板も記念碑もない… |
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不来坂(このさか※地元では「こぬさか」) 国道372号線をどんどん西へ進み、「羽賀野」「古市」の交差点でいったん国道176号線と合流します。「古市」交差点を右折してふたたび国道372号線へ。この地は「不来坂(このさか)」という変わった地名で、これも義経軍にちなむもの。進軍してきた義経がこのあたりで平家が待ち構えているだろうと思ったのに来てなかったので「平家不来(こぬ)坂」と言ったのが由来だとか。またこの逸話とは逆に源氏の兵が来なかったので「不来坂」になった、という説もあります。いずれにせよこのあたりから義経軍はピリピリ臨戦態勢に入ったと思われます。写真は不来坂を通るJR福知山線の踏切。 発見難易度★踏切は通過地点なのでイヤでも目にする。 見ごたえ度★★★★案内板も記念碑もないけど地名が義経にちなんでいるので勝手に盛り上がる。 |
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名無し木 |
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集(つどい)の集落 不来坂の踏切を越えてしばらく行くと右手に「白髪岳登山口」へ向かう道があるのでそこを右折。どんどん進むと「集(つどい)」の集落に入ります。義経が三草山合戦を前にここで兵を集めたことに由来する地名です。お蕎麦屋さん「一眞坊」の入り口前に案内板が立っています。「一眞坊」は平日でも多くのお客さんが訪れる人気のお蕎麦屋さんですが、一見ごくごくふつうの民家(写真下)なので見落としてしまいがち。 |
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集坂 上記の「集坂」の看板から西へ伸びる道(写真下)が、義経が三草に向けて進軍していった「集坂」と伝わっており、この道の先には「偽首(うそがくび)」という、平家が木々に鎧兜を掛けて軍勢が集っているようにみせたという場所もあるそうです。 発見難易度★★★道さえ間違えなければ、そして右側に注意を配っていれば「一眞坊」と「集坂」の看板が見つけられる…はず。 駐車スペース・特になし(一眞坊の専用駐車場はある) 見ごたえ度★★★★案内板がある!というだけでありがたい気持。不遇に慣れてる義経ファンにとっては。 |
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トンガリ山(会峰・会ヶ峰) 国道372号線に戻りしばらく進んで「上小野原」の交差点をいったん右折します。細い道をしばらく行くと「井根口池」という池があり、その向こうにキョトンととんがった山が見えます。見たまんま「トンガリ山」(620m)と呼ばれており、この山の上空に輝く北斗七星(妙見星)を目印に、義経軍がこの地に集結したといわれています。なので別名「会峰(あつまりみね)」「会ヶ峰(あいがみね)」、また「妙見山」とも呼ばれますが、一番メジャーな呼び方はやっぱり「トンガリ山」。一度見ると忘れられないインパクトのある山容ですが、地図を見ても表記されてないことが多いマイナー山。 発見難易度★★不来坂から上小野原の交差点へ向かう国道からも一瞬見える。 見ごたえ度★★何の案内板も記念碑もないけどこの山を義経も眺めた…(かもしれない)と妄想にひたる。 井根口池付近 |
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オロ坂 「上小野原」交差点まで戻り、そのまま交差点を真直ぐ進んで今田町方面へ向かうと、義経軍がオロオロしながら越えたとされる「オロ坂峠」があります。地名の表記がないのでイマイチ自信がないけどたぶんここ。別説では源氏の母衣(ほろ)武者が通っていったので「ホロ峠」→「オロ峠」と呼ばれるようになったとも。義経はこのあたりから、平家の陣に夜襲をかけるべく周囲の山野や民家に火を放って松明がわりにしながら突き進んでいったといわれています。住民大迷惑。なので…義経軍の被害者であるこの地の人々(戦火を呼び込んだのは平家のほうだが)はたぶん代々義経にはあまりいい印象を持ってない…と思う。不来坂あたりまでの史跡はまあ歓待ムードというか「ヒーローがおいでなすった!ワーイ!」という浮かれ気分が感じられるけど、ここからは義経が超シビアな戦闘モードに入ったため、地元の人々もゆるい史跡を残す余地はなかったよう。「オロ坂」というネーミングからも、義経へのひそかな反感がにじみ出てる…気がする。住民リサーチしたわけではないので真意はわからないけど、なんだか義経ファンである私がオロオロした気分になってきました。 ついでに、オロ坂付近からは上記のトンガリ山がよく見えます(写真下)。見れば見るほどとんがってる。もうとんがりコーンにしか見えない。 発見難易度★★ 見ごたえ度★★うん…ただの道路だね… ※写真を撮った場所 |
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和田寺(わでんじ) オロ坂から西の方角には和田寺山(591m)があり、その山の中腹には和田寺(わでんじ)という寺院があります。源平の頃は東光寺という名の大寺院でしたが、三草山合戦の際、義経軍の兵火によって全山焼失しました。ギクリ。この山はかつて「東光寺山」という名で、国道372号線を隔てたところにある「西光寺山(712.9m)」と対をなしていたと思われます。ギクリ…。気まずさ増幅中。義経ファン的にはちょっと肩身の狭い場所。動揺のため写真がブレてます。うそ。写真撮るのが致命的にヘタなだけ。 ここからほど近い場所には義経が一休みしたという「千年家」跡もあるそうですが情報が乏しくて見つけられず。篠山市観光課さーん!教えてー! この周辺、篠山市今田町は立杭の里と呼ばれていて日本六古窯のひとつである丹波焼の産地です。その歴史は800年を誇ります。800年というと…ちょうど源平合戦の頃。三草山合戦の焼け野原跡から興った産業なのかな…?ともあれこのあたりも有名な観光スポットで、近くには日帰り温浴施設「こんだ薬師温泉・ぬくもりの郷」もあります。 発見難易度★★大きいお寺なので見つけやすい。仁王門からどんどん杉林を進んでいくと本堂に着く。 駐車スペース・あり 見ごたえ度★★気まずさ度なら余裕の★5つ。 |
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タダ越峠 「上小野原」交差点に戻り、ふたたび国道372号線を走ります。「本庄」交差点でいったん左折して市原公民館まで進みます。その裏手から西南方面へ延びる道が「タダ越峠」と呼ばれる場所。何の表記もないけどたぶんここ。義経が三草山に向けて進軍した道といわれ、このあたりで平家勢とぶつかると予測していたのに何事もなく越えられたため「タダ越」と呼ばれるようになったとか、この峠で源氏側の武将・多田行綱が出迎えて道案内をしたので「多田越」になったとか言われています。 発見難易度★★★何の標識もないのでどこからどこまでがタダ越峠なんだか。 駐車スペース・なし 見ごたえ度★うん…ただの山道だね… ※写真を撮った場所 |
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御所谷(ごしょだに) 国道372号線に戻り、ぐんぐん西へ。加東市に入り、「上鴨川」の交差点を過ぎると御所谷と呼ばれる地域に入ります。このあたりで平家が義経軍を迎え討つべく陣を張っていたといわれます。道の両脇にぐーっと山が迫る狭隘な場所。この道はちょくちょく通ったことがありますが、圧迫的な景観のためか、はたまた平家の怨霊のせいか、通るたび心がざわめくような落ち着かない気持になります。まあ私は霊感ゼロなのでおそらく単なる思い込みだろう…きっとそうだ… 発見難易度★国道ですから。 見ごたえ度★★ただの国道。感じる人には感じるモノ(ノケ)があるのかも。 ※写真を撮った場所 |
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三草山合戦モニュメント 国道沿いの左側に唐突に出現する武者群像!三草山合戦の様子を描いた記念碑です。なんだかやっとちゃんとした史跡モニュメントに出会えた気がする!感動…!屏風状の壁に騎馬武者、徒武者らが勇ましく戦う姿がシルエットでくり抜かれていて、なかなか見ごたえがあります。どれが義経かな?これは弁慶だ!等と勝手にキャスティングしていくのも楽しい。 発見難易度★国道沿いなので難なく見つかる、ただカーブ地点にあるので油断してると通り過ぎる。右側に「徳澤鉄工所」の看板が見えたら減速して停車準備。 駐車スペース・路肩に乗用車二台くらいまでなら停められるスペースあり。でも平日の昼下がりなどはトラックの運ちゃんがトラック停めて昼寝してたりする。 見ごたえ度★★★★★源平ファンには嬉しい大きなモニュメント、でも意外と知られていないっぽい(史跡ガイド等で紹介されてるの見たことない)ので皆もっと見に行こう! |
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弁慶のなぎなた石 上記のモニュメントから国道を北に少し戻ったところの草むらの中に、中央に小さなくぼみのある岩がポツンと置かれています。これは弁慶のなぎなた石と呼ばれるもの。弁慶が長刀の柄を突き刺した跡だといわれています。弁慶の行動は相変わらず意味不明です。 発見難易度★★上記のモニュメントのすぐそば。 見ごたえ度★★★案内板がないのが惜しい… |
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三草山登山口 三草山モニュメントから国道372号線を少し走ると、左側に三草山登山口への入り口がみえます。山道(車一台がギリギリ通れるガタガタ道)を進んでいくと登山者用駐車場にたどり着きます。この駐車場、そして駐車場のそばにある「昭和池」あたりが三草山合戦の激戦地だったといわれています。 ちなみに三草山の山頂には三草山合戦のあらましを記した石碑などがあるので時間のある方は登ってみてください。三草山にはこの三草口からの三草コースと、畑コース、鹿野コースの三つの登山口があり、畑コースが一番楽で鹿野コースが一番ハード。この三草コースは中ぐらい?私は前回の史跡めぐりでは畑コースから登りました。畑コースの登山口にも三草山合戦の案内板があります。 発見難易度★★★駐車場までの山道がちょっとスゴイ。というかヒドイ。 見ごたえ度★★源平合戦に関する案内板がひとつもないのが残念。 |
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★続報★12月1日再訪問 源平合戦に関する案内板がひとつもないとか言いましたが駐車場の東屋(上段の写真)のなかの案内板にちゃんと載ってました…すみません。本当イイカゲン。いつもこんな感じ。しかしずいぶん薄汚れた案内板だったので義経の名のところだけでも拭いておきました。結果ミョーに浮いて恥ずかしい感じになってしまった。 |
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山氏神社(やまうじじんじゃ)・義経御手植の松 372号線に戻り、そのまま加東市・社町の市街地へ入ります。社町の中心部には佐保(さほ)神社という神社があり、三草山合戦のあと義経はこの神社で兵を再集結させ、休息を取らせるとともに次の作戦を考えたといいます。その佐保神社から少し離れた場所にある末社「山氏神社」の境内にはかつて義経が戦勝祈願のため植えた「義経御手植の松」と呼ばれる大木がそびえていたそうですが今はなく、現在は「源九郎判官義経御手植の松」と刻まれた石碑が残るのみ。ただその玉垣の中には松の若木が植えられています。伝説を受け継いでいこうという心意気なのだとすれば嬉しい、義経史跡ここにあるよー!という案内板を付近に立ててくれたらもっと嬉しい。路地の中の小さなお社なので見つけにくいの何のって(泣)「源九郎判官義経」という碑文の文字を目にするだけでも義経ファンは嬉しいんだから、もうちょい宣伝に力を入れてくれても損はしないよ!きっと…。 発見難易度★★★★路地の中を見落とさないようゆっくり進め。 駐車スペース・境内にあり。でもそこにたどり着くまでが大変。 見ごたえ度★★★★義経の名が刻まれた石碑を見るだけでいい…欲ばりません義経ファン。 |
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百旗(ひゃくはた) 社町の社郵便局の裏手にある高台には「百旗」という地名がつけられています。これは三草山合戦に勝利した義経が平家を追ってこの地までやってきて百本の源氏の白旗を立てたという言い伝えに由来するもの。とくにその謂れを記す案内板等はないので史跡といっていいのかどうか微妙ですが、ちょうどそのあたりの場所にある駐車場の看板に「百旗」の文字が載っているので写真に収めました。 発見難易度★★ 見ごたえ度★地名が載ってるというだけなので… |
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弁慶の投げ桜 加東市内から「藤田」交差点まで戻り右折、今度は県道17号線を東へ進みます。「朝光寺口」交差点手前、JAみのり南部生活センター前の歩道に、「弁慶の投げ桜」という石柱が立っています。義経軍がこのあたりを通った際弁慶の頭に桜の木の枝が当たり、弁慶が怒って枝を折り地面に叩きつけたところその枝がそのまま根付き桜の大木になった、といういかにも弁慶らしいというかトンデモというかお前何やってんのひとりで、という感じの逸話があります。石柱には「伝承・南へ三十米(メートル)」と場所が記されていますが、桜の大木なんてない…が!桜の苗木のようなものがちょうどこの石柱から南へ30メートルほどのあぜ道に植えられてる…?社町の御手植の松と同様にこちらも新世代への伝承を期待していい…のかな? ちなみに「朝光寺口」交差点を左折すると朝光寺に、そして三草山・畑コースの登山口にたどりつきます。こちらは前回訪れたので参照してください。朝光寺は国宝に指定されている古刹で、もともとこの場所より北の権現山にあり平資盛の宿営地になっていましたが、そのために三草山合戦で山もろとも全焼…ギクリギクリ。文治五年(1189)に現在の場所に移り再建されました。 発見難易度★★ 見ごたえ度★★石柱だけなのが寂しいけど桜の木が育つといいなー。 |
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★続報★12月1日再訪問 これが「弁慶の投げ桜」候補…なのかな? |
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掎鹿寺(はしかじ) 県道17号線をさらに東へ進み、「天神北」の交差点を左折、写真上のような標識のある路地に入ってどんどん進むと「掎鹿寺」に着きます。こちらも以前の旅日記で訪れた…が!前回はその手前のお寺「南蔵院」を掎鹿寺と勘違いして帰ってしまってた。いやーでも知らない人は間違うと思うよ!南蔵院の入り口前にも思いっきり「掎鹿寺」って書いてあるもん。とにかくそこで止まらずそのままぐんぐん坂道を登ってゆくと、左手に写真下のような古い薬師堂が見えます。このあたりが、義経が三草山合戦後に軍を集めたといわれる場所。義経は二月五日にこの寺で宿営し、翌日軍を二手に分けます。土肥実平に託した軍は一の谷に、義経自らが率いる精鋭軍は奇襲をかけるため鵯越に向かいます。 発見難易度★★★入っていく路地がちょっとわかりにくいのと、手前のお寺と勘違いしてしまうというトラップさえ回避すれば大丈夫。 駐車スペース・あり 見ごたえ度★★★★★諸説紛々の義経進軍ルートだが掎鹿寺に来たのは確実っぽい。義経もこの地を踏んだ…! |
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掎鹿寺周辺・義経道モニュメント 掎鹿寺薬師堂から道路を挟んで右側の広場には、おお…!「義経道」というダイナミックな文字が躍る、大きな横長の石碑が!今回の旅のゴール地点にふさわしい感動的モニュメントです。その横には「義経道 割って田水を 引きにけり」という句碑もあります。三草山・朝光寺方面からこの掎鹿寺へ向かう道は「義経道」と呼ばれており、この石碑のそばにはルートを示す案内板も立っています。 発見難易度★掎鹿寺さえ見つかればOK…というか掎鹿寺より先にまず目に飛び込んでくるのがこの石碑。 見ごたえ度★★★★★「義経道」力強く書かれた大きな文字に、この旅への励ましとねぎらいを(勝手に)感じる。 |
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道の駅とうじょう 加東市「道の駅とうじょう」に2012年春「加東市 丹波道を駆け抜ける義経伝説」パネルがお目見え!待ってましたっ♪同コーナーには義経伝説パンフレットも置いてます。義経史跡の充実っぷりが一目でわかるすぐれもの。観光客や地元民へのアピール効果絶大です。 道の駅とうじょう 加東市観光情報サイトKIZUNA |
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パネル内の一部情報(「不来坂」「渡瀬」など)には弊サイトも微力ながら情報提供させていただきました |
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義経が駆け抜けていったこのルート、稀代のヒーローとして歓迎されたり疫病神のように思われたり、地域によってまた人によって、義経への思いはきっとさまざま。この日のお天気はそんな義経への毀誉褒貶を示すかのように、パアッと晴れたり急にしぐれたり、めまぐるしい気まぐれな空模様でした。 それにしても義経史跡といえばマイナー。マニアック。迷子必至。何それどこにあるの状態になるのは以前から痛感していたことです。しかし今回は本当にわかりにくさMAX!これ地元の人も絶対知らんだろみたいなところが多かった。事前に何度か現場リサーチしてから一気に回ったのでキングオブ方向音痴な私でも一日で何とか回れましたが、実際やってみようという(物好きな)方も下調べは十分にされたほうがいいです。本当に。標識・案内板まるでなし!まがりくねる路地!昼なお(薄)暗い また今回行ったルートのなかでも抜けてる史跡があとから見つかると思うので、その都度追加していきたいと思います。今回皆無だったお土産やグッズ(涙)も増えるといいなー!亀岡市はぜひ「義経腰掛岩まんじゅう」を。篠山市は黒豆orいのししで関連グッズを。加東市は「義経三草焼まんじゅう」を。あと、義経の進軍ルート順にスタンプラリーとか設置したらいいと思うなー!各市の皆さん!(無理を承知で)よろしくお願いしまーす!!! |
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