2004年2月/2005年8月追加情報 |
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1184年(寿永三年)2月7日に戦いの火ぶたが切られた「一ノ谷合戦」。神戸・生田森(現神戸市中央区三宮あたり)で大手同士の激戦が展開される一方、九郎義経は平家の本陣・一ノ谷を背後から攻めるべく少数の精鋭を率いてひそかに進軍します。神戸市北区の藍那から鵯越に向かうコースと一ノ谷へ向かうコースふたつの説がありますが、ここでは後者・一ノ谷(現神戸市須磨区)での源平合戦の史跡、および明石市内の史跡をご紹介します。 |
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須磨・妙法寺 一ノ谷本陣・須磨方面をめざす九郎義経以下精鋭七十騎は、藍那から白川を経てここ妙法寺のそばを通ってゆきました。 妙法寺は天平十年(738年)聖武天皇の勅願により開かれた歴史あるお寺で、平清盛が福原(神戸)遷都を行った際には北の鎮守の霊場として平安京の鞍馬寺に見立てて祀られました。御本尊も鞍馬寺と同じ「毘沙門天」。平安末期に造られた貴重な像で、国の重要文化財に指定されています。 神戸市営地下鉄「妙法寺駅」が最寄の駅ですが、駅から県道22号線を南にしばらく歩かねばなりません。私は迷い迷い15分ほどかけて到着しました…。住宅街から少し奥まった閑静な場所にあります。 |
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那須与市の墓所 妙法寺から県道22号線をさらに南にもう少し歩くと、那須与市の墓所と伝えられるお寺があります。お堂のなかには那須与市にまつわるさまざまな物品(屏風、御詠歌、新聞記事、資料各種)が展示されており、自由に見学できるようになっています。またこの道向かいには那須与市が信仰していたという北向八幡宮があるそうです。 一説によると、那須与市は源平合戦ののち出家して諸国の寺社を参拝して回る旅の途中、この地を訪れた際に病にかかってそのまま没したといわれています。合戦の折に武運を授けてくれた八幡宮に今度は戦没者の供養のため訪れた与市、その彼がこの地で天に召されたのは何かの因縁なのでしょうか。 |
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須磨寺 次に目指すは須磨寺。神戸市営地下鉄から山陽電鉄に乗り換え、須磨寺駅で下車。駅からはさまざまな商店が軒を連ねるにぎやかな参道がまっすぐにのびています。 須磨寺は「平敦盛首塚」「弁慶の鐘」など源平にまつわる史跡や展示物を多数有する源平ファンなら必ず立ち寄っておきたい名刹です。正式名は「真言宗福祥寺」、しかしもっぱら須磨寺の名で親しまれています。 写真は本堂。青々とつややかに茂る常緑樹の山並みをバックに、威風堂々たる姿がひときわ映えてみえます。 |
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須磨寺・平敦盛と熊谷直実の像 須磨寺の入口、仁王門をくぐると左手に「源平の庭」があります。一ノ谷合戦の名シーン、落ちゆく美貌の若武者平敦盛とそれを呼び止める熊谷直実の緊迫の一瞬が再現されています。 またこの庭の一角には歌舞伎「一の谷嫩軍記」で有名な“一枝を伐らば一指を剪るべし”と弁慶が制札を立てた「若木の桜」もあります。 |
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須磨寺・弁慶の鐘 源平の庭に隣接する宝物館には青葉の笛など源平ゆかりのさまざまな物品が展示されています。この「弁慶の鐘」もそのひとつ。もともと山田庄(神戸市北区)の安養寺のものを、一ノ谷合戦の折に弁慶が陣鐘がわりに薙刀の先にひっかけて持ってきちゃったとか。ど、ドロボー…?鐘には「摂津矢田部郡丹生山田庄原野村安養寺之鐘」と記されています。 境内にも同じ形の鐘が吊るされていますが、そちらは一ノ谷合戦800年を記念してつくられた複製。毎年大晦日には、除夜に弁慶の鐘をつこう!という人気イベントのひとつになっています。 |
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須磨寺・木島小石人形舎 宝物館の一角には源平合戦の様子をかわいい小石人形で再現した「須磨寺木島小石人形舎」があります。須磨浦で拾った小石で製作された、二科会会員の故・木島武雄氏による200点以上に及ぶ充実の内容。しかもよく見ようとガラスケースに近づくと、小石の武者たちや幟旗がセンサーでわーっと動くのです。音楽も鳴る!素朴だけど味わい深くて品のある武者らの表情にも注目です。 |
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須磨寺・義経腰掛の松 須磨寺本堂のとなりには屋根と囲いに守られた大きな枯木が横たわっています。九郎義経はこの松に座って平敦盛の首と笛を検分したとか。でもこれ、小柄な九郎には大きすぎるんじゃあ…。チョコンと座れば足が地につかずプラプラしそう(それはそれでちょっとカワイイ?)。こんな立派な古木ならむしろ「弁慶の腰掛け」にふさわしい。でも弁慶は九郎のサポートに大忙し、悠然と座ってる暇なんてなかったでしょうね。 この史跡のすぐ前には「平敦盛公首洗いの池」という小さな池もあります。 |
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須磨寺駅周辺・平重衝捕われの松 山陽電鉄須磨寺駅のすぐ横には「平重衝捕われの松」と刻まれた石碑と小さなお堂があるので見落とさぬよう。一ノ谷合戦で主だった平家の将がことごとく落命して首を取られる中、この重衝は生け捕りになった例外的存在。捕虜の身となった彼は鎌倉に送られて頼朝と対面し、その堂々たるふるまいを称えられて優遇されますが、やがて壇ノ浦で平家が滅ぶに及んで彼もまた斬首され、結局は一族と運命を共にすることとなるのです。 |
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須磨浦公園 須磨寺駅から山陽電鉄で西へ二駅、須磨浦公園へ。須磨浦公園は、なみなみと広がる須磨の海に面した、閑静な浜辺の公園です。海辺に沿って松原が続きます。その背後には「須磨アルプス」と呼ばれる山々が海にせり出すようにそびえています。 |
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須磨浦公園・源平古戦場記念碑 公園の東のはしの国道二号線沿いに、源平合戦を記念するシンプルだけど存在感のある石碑が建てられています。 |
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安徳宮 源平の石碑の裏からのびている九十九折のものすごい坂道(見たとたん引っ返そうかと思うくらいの!)をのぼりつめると、路地の間の涼しげな木陰にひっそりと、不運な最期を遂げた安徳帝が祀られています。この場所はかつて安徳帝の内裏があった場所だといわれています。 源平の戦で源氏に追われられた安徳帝は平家一門に奉じられて西走の途中、一ノ谷に内裏を置かれたと伝えられている。この地に安徳帝のご冥福を祈るために祀られたのが安徳宮である。安徳帝は寿永四年(1185)下関壇ノ浦の戦にて祖母二位の尼(平清盛の妻・建礼門院の母)に抱かれ、八才で海中に身を投じられた。 御神徳は「子供守護」「水難厄除」「学業達成」…なるほど、説得力あるご利益…? |
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須磨浦公園・敦盛塚 山陽電鉄須磨浦公園駅の西側、国道二号線沿いに、敦盛塚とよばれる石塔が建てられています。高さ4メートル近くの重量感あふれる立派な姿。室町後期〜桃山時代に造られたもので、中世の五輪塔としては全国二位の規模だそうです。説明書きには、 この付近は源平一の谷合戦場として知られ、寿永3年(1184)2月7日に、当時16歳の平敦盛が、熊谷次郎直実によって首を討たれ、それを供養するためにこの塔を建立したという伝承から、“敦盛塚”と呼ばれるようになった。このほか、鎌倉幕府の執権北条貞時が平家一門の冥福を祈って、弘安年間(1278〜1288)に造立したなどの諸説がある。 とあります。平家の人々の魂を集めて供養した「あつめ」塚がいつしか「あつもり」塚に転訛したのでは、とのことです。 |
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須磨浦公園・鉢伏山(ロープウェイ鉢伏山山上駅へ) 山陽電鉄須磨浦公園駅から背後の鉢伏山山頂まではロープウェイが運行しています。この鉢伏山から始まる「須磨アルプス」は、はるか東の六甲山まで続くハイキングコースにもなっています。 九郎らが逆落としを試みたのはこの鉢伏山のすぐとなりの鉄拐山からですが、鉢伏山からでも十分に足のすくむような断崖を臨むことができます。鵯越なら「坂落とし」ですがこちらはまことにまっ逆さまの「逆落とし」。こんなとこから「鹿も四つ足馬も四つ足、さあ駆け下りろ」などと言われたら、私なら聞こえなかったフリするか「ふざけんな」とキレるでしょう。 |
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須磨浦公園・ロープウェイより神戸方面を おだやかな春の陽光にきらめく雄大な海を眼下に眺めていると、あっという間にロープウェイは頂上に着いてしまいます。 鉢伏山山頂には喫茶のできる回転展望台があり、六甲山脈、神戸の市街、なみなみと豊かに広がる太平洋に間近く浮かぶ淡路島、明石海峡大橋をはさんで明石の街並まで、360度ワイドにゆっくりと見渡せます。 きれいに整備された現在の須磨の浦、山の斜面に整然と並ぶ住宅街に、かつてこの地で繰り広げられたであろう合戦の光景を重ね、800年前の武士らの勇姿そして悲哀に思いを馳せ、しばし時を忘れて見入ってしまったのでした。 |
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2005年大河ドラマ「義経」放送記念・追加情報 | |
山陽須磨寺駅・須磨寺前商店街 山陽電車・須磨寺駅から須磨寺を結ぶ参道の商店街「須磨寺前商店街」には、大河「義経」放送を記念して写真のような横断幕が張られています。須磨寺駅側は赤い旗、須磨寺側には白い旗。平家の赤、源氏の白、配分よく源平カラーが使われているところに強いこだわりがうかがえます。 |
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義経と静・記念撮影用パネル 須磨寺参道ぞいの休憩所にはごらんのような義経&静の顔出しパネルが。「行ってしまうんですね殿…」「許せ…静」といったシーンか。なんにせよ義経ファンにはうれしいパネル。「静は須磨と関係ないやん」なんてやぼなツッコミはいたしません。でもせっかくだからご当地ヒーローの平敦盛くん&熊谷直実のパネルなんかもあればもっといいかも。 |
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明石の史跡 | |
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明石・両馬川 山陽電鉄で須磨からさらに西、明石方面に向かいます。一ノ谷合戦でこの明石の地まで逃げのび討たれた平氏武者らにまつわる史跡が、おもに山陽電鉄人丸前(ひとまるまえ)駅周辺に点在しています。 まずは駅を出てすぐ右手の高架下の暗がりにひっそりと建てられている「両馬川旧跡」。立札には、 平忠度が岡部六弥太に追いつかれ二人の馬が川をはさんで戦ったので「両馬川」という名がついたと伝えられている。 とあります。現在はその川もなく、自転車置き場になってます… |
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明石・腕塚神社 両馬川の史跡からほど近い高架と民家の間の空き地に、腕塚神社という小さな祠があります。両馬川にて源氏の勢と戦い腕を切り落とされてしまった平忠度を祀ったものです。 |
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明石・馬塚 人丸前駅のすぐ北側には、日本標準時子午線(東経135度)を示す明石市立天文科学館の時計塔が時を刻み、プラネタリウムの銀のドームがきらめいています。 科学館へと続く歩道沿いに、「馬塚」と標された石碑と標識がいささか唐突に配されています。 平経盛の子である平経正(敦盛の兄)の馬を埋めたという。 とあります。経正は琵琶の名手として有名でした。その弟の敦盛は横笛の名手、芸能に秀でた雅な兄弟も、ともにこの一ノ谷合戦によって若い命を散らしたのでした…。 |
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明石・忠度塚 人丸前駅から少し南にさがった住宅地の路地のなかに、この地で討たれた平忠度を祀る塚があります。案内札には、 寿永三年(1184)一の谷の戦いに敗れた平氏の将薩摩守忠度が両馬川まで来たところで源氏の将武蔵国(埼玉)の岡部六弥太忠澄に討たれ、その亡骸を埋めたところと伝えられる。 平忠度(1144〜1184) 清盛の弟、正四位下 薩摩守となる。藤原俊成に師事し和歌をよくした。平家西走の途中京都に引き返し俊成に詠草一巻を託した話は有名。 とあります。 また、この通りの近くには「忠度公園」という公園が。子供の遊び場用のごくありふれた広場にすら「忠度」の名がつけられているとは。明石の人々の、当地で討たれし者に対する親しみと慈しみは並々ならぬものがあるようです。 |
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オミヤゲ情報 | |||
敦盛だんご(須磨寺・盛神堂) 須磨寺参道沿いの御土産物屋さんで見つけたのがこの「敦盛だんご」。プレーンな白餅、茶色のニッキ味、緑色のヨモギ味、一串で三つの味が楽しめます。写真は五つ入りで\550のもの。 |
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