2004年1〜2月

 1184年(寿永三年)1月29日、源氏は平家を討つべく京都より出陣しました。海と山に守られた狭隘な福原の地(現神戸市)に陣を布く平家に対し、源範頼率いる大手軍五万騎は東の生田口(現・神戸市中央区三宮)より真向勝負で攻め入ります。源九郎義経率いる搦手(からめて)軍一万騎は篠山街道・三草山を経由し、六甲連山を乗り越えて、平家の本陣・一ノ谷(神戸市須磨区)の背後を衝くべく軍を進めます。大手軍のルートにくらべてずいぶん遠回り、しかも山々のつらなるハードな道のり、人馬の消耗はいかほどのものだったでしょう。往時の苦難に思いを馳せるべく、九郎義経があの日風のように駆け抜けていった一ノ谷への道を、三草山を起点に、かなり大まかに追ってみました。

三草山(畑コース登山口)
 京都から播磨方面へと伸びる篠山街道(国道372号線)沿いに三草山はあります。三草山登山にはみっつの登山ルートがあり、写真はそのうちのひとつ「畑コース」入口駐車場の案内看板。そのとなりには三草山の概要を記した立て札が。内容を抜粋すると…
 三草山は播州平野の北東隅にあり、標高423.9メートル、面積1100ヘクタールで、そのほとんどが国有林です。歴史的には、播磨風土記や平家物語、新平家物語などに記されています。寿永三年二月平家追討の源義経が平家と戦ったのがこの三草山で、追われた平家はここから一ノ谷壇ノ浦へと逃げていったのです。


三草山(畑コース登山口)
 最短ルート「畑コース」は三草山の南側から登る1.5キロほどの距離、ゆっくり登っても一時間もかからないので初心者にはおすすめ。ただし距離が短いぶん勾配がきつい!とくに登山口からいきなり延々と続く階段状の急坂には閉口します。でもこれを乗り切ればあとはどうにか…運動不足の私でもけっこう楽しんで登れました。登山道はほどよく整備され、かといって観光客ズレもしておらず、友達や家族連れで気軽に低山登山を楽しむにはうってつけの親しみやすい山です。

三草山(山頂遠景)
 登山道の途中より臨む三草山山頂。

三草山(山頂)
 到着!山頂には石碑や祠、またベンチもあり、360度広がる播州平野のパノラマをゆっくりながめることができます。石碑の内容を抜粋しますと…
 寿永三年二月、平家追討のため、源九郎義経の率いる一万余騎は、丹波小野原の里に布陣し、夜半、民家や山野に火を放ち、三草三里の山中を駆け抜け、一挙に平家の陣に突入した。三草山の西の山口に陣取る小松三位中将資盛、左中将有盛など平家一門七千余騎は、不意の夜討ちに弓矢を取るいとまもなく、もろくも、屋島をさして敗走していった。これが世にいう「三草合戦」と、「平家物語」などの伝えるところである。

三草山(山頂よりの眺望)
 頂上より南の方角を見おろすと、低山が幾重にもうねる播州平野の先に壁のように横たわる六甲連山、南西には淡路島や瀬戸内海、南東にははるか紀伊半島が見えることも…しかしこの時は春先特有の靄がうっすらとかかっていて、六甲山や淡路島などの輪郭がかろうじて見えた程度。写真ではなおさらわかりませんな。でも、九郎が鵯越に向けて進んでいったであろう景色がここから一望できるのは感動もの。確かな地図も情報もない時代、この靄よりもなお漠然とかすんだ先行きへの不安と戦いながら突き進んでいった九郎たちの心の強靭さには感服せずにはおれません。それにしてもこの写真はヒドイや。今度もしもっとクリアな景色が撮れたらUPします…。

 2月5日夜の三草山合戦に勝利した九郎義経は、ここで手持ちの軍勢一万騎を二手に分けます。土肥実平に託された別働隊七千騎は、ここ加東郡より小野市〜三木市〜神戸市西区を通り、一ノ谷へ西方面からのアプローチを試みます。残る三千騎(畠山重忠熊谷直実ら)と九郎義経直属の精鋭七十騎は美嚢郡吉川町〜三木市〜神戸市北区を縦断する間道を突き進み、一ノ谷への最短コースを模索しながら南下してゆきます。

加東郡社町・朝光寺(ちょうこうじ)
 法道仙人の創立と伝えられる朝光寺、本堂は応永二十年(1413年)に建立された和様と唐様の折衷様式のダイナミックな密教建築で国宝
に指定されています。また境内のすぐそばに「つくばいの滝」というすがすがしい流れがあります。三草山登山口からそれほど遠くない場所なので、下山後に時間のある方はぜひお立ち寄りください。

加東郡東条町・掎鹿寺(はしかじ)
 高野山真言宗白鹿山掎鹿寺は播磨西国三十三ヶ所観世音霊場の第二十二番札所であり十一面観音様が祀られています。境内には九郎義経が一ノ谷に向けて通っていったという「義経道」がそのまま残されているそうです。

美嚢郡(みのうぐん)吉川町・法光寺(ほうこうじ)
 白雉二年(651年)法道仙人開創、本尊は阿弥陀如来座像。古文書や石造五輪塔など県指定の重要文化財を多く有する歴史あるお寺です。春には桜、秋には紅葉がみごととのこと。この付近の民家には義経が立ち寄ったという言い伝えも残されています。

つくはら湖(呑吐ダム)
 吉川町内を貫く国道428号線を南下し、神戸市北区淡河(おうご)の交差点から西に迂回すると、つくはら湖または呑吐(どんど)ダムとよばれる東西に細長い湖が見えてきます。周辺はサイクリングコースになっており湖畔を散策できる快適なスポットになっています。
 義経の道をより忠実に体験したい場合は、淡河とつくはら湖を結ぶ滝あり山ありのハイキングコースがありますが、健脚向けとのこと…なので私は今回はパス(軟弱者)。

箱木千年家・鷲尾三郎の登場
 つくはら湖の東のほとりに箱木千年家という史跡があります。室町時代中期創建といわれる入母屋造り、民家としては日本最古の貴重な建築物で、有料(\300)で見学できます。
 『学研歴史群像シリーズL源平の興亡』によると、当時この地域を治めていた箱木藤延は近江源氏佐々木高綱の姉妹を妻としており、源氏にゆかりある人物だったので、九郎は彼に一ノ谷への道案内を頼みます。藤延は、叔母のところに猟師をしている男子があったのでこれを案内役として九郎に紹介してくれました。この若者が、こののち九郎の最期まで付き従うことになる郎党・鷲尾三郎(鷲尾惟綱の子)です。

神戸電鉄・藍那(あいな)駅
 箱木千年家からさらに南下、神戸電鉄の藍那駅へ向かいます(このルートもハイキングコースになっています)。藍那駅の構内にはささやかながら一ノ谷合戦の札が立てられています。
 神戸電鉄(通称・神鉄)は北播磨・三田市と神戸を結ぶ私鉄。ここ藍那駅から終点の新開地(神戸)までは、ほぼ源氏勢三千騎の進んだ「鵯越」コースと重なります。
 ちなみにここからの九郎義経の進軍ルートは二説あります。三千騎とともにまっすぐ大輪田泊(現在の兵庫・和田岬)に降りていった鵯越説、藍那から少数の精鋭(七十騎)を率いて須磨の一ノ谷本陣をじかに衝いた一ノ谷説。目下、どちらとも判別しがたいようです。

藍那駅から相談ヶ辻方面へ
 藍那駅から鵯越駅まで、電車にゆられていっても充分に深山の進軍の雰囲気を感じ取れますが、鵯越までを歩くハイキングコースにはささやかながら源平ゆかりの史跡が残されているので、時間と体力に余裕がある場合はトライしてみましょう。
 藍那駅から、写真のようにアスファルトで舗装された歩きやすいハイキング道が続きます。この先に、九郎が鵯越か一ノ谷いずれのコースをとるか協議したという「相談ヶ辻」という分かれ道があります。右(西)にまがれば一ノ谷、左(東)にまがれば鵯越。今回は左の鵯越コースを進みます。

鵯越遊園墓地・義経馬つなぎの松
 ハイキングコースは藍那駅から山道、市街地を抜け、鵯越墓園の中を通ってゆきます。園内には整備された車道がありますが、藍那側からの入り口となる北門はお盆とお彼岸の時期しか開放していないので、車を置いて歩かねばなりません。たいへん広大な山上の墓園、けっこう起伏もあり、歩いて突っ切るのはちょっとえらいことでした…
 墓園を南北に貫く車道を三分の一ほど進むと、雨量レーダーのそびえる高台があります。そのすぐふもと、高尾地蔵尊のそばに、義経馬つなぎの松という史跡が。なるほど祠の後ろにそれらしき苔むした古い切り株がみえます。

鵯越遊園墓地・高尾山
 高尾地蔵尊(馬つなぎの松)の近くから細く急な坂がのびていて、これを登り切ると高尾山頂上です。写真のような標識のほかにはベンチが一台置かれただけ、広さも四畳半ほどしかないごくそっけない山頂ですが見晴らしは最高! 眼下には神戸の町並みが一望のもとに。東にははるか大阪湾、西は須磨から明石海峡大橋をはさんで淡路島、瀬戸内海までかなりクリアに見渡せます。猫の額のようなこの山頂から神戸の街を見下ろして「お山の大将」気分にひたるのもオツなものかも。

鵯越遊園墓地・高尾山より神戸方面
 …案の定、春先の靄とカメラマン(私)の技術不足のためヘッポコな写真しかお見せできませんが。
 この高尾山からばかりでなく、鵯越墓園そのものがかなりな高地にあるので、車道を歩きながらでも木々の間からすばらしい眺めを堪能することができます。

鵯越遊園墓地・蛙岩
 高尾山からさらに南へ、めげずに延々歩いてゆくと、次なる史跡「蛙岩」。車道脇からひっそりと伸びている山道(わかりにくい)を数十メートル進むと、なるほどガマガエルか何かがうずくまったような巨石がどっしりと鎮座しております。が、付近にはこれについての説明看板など何もなし。神戸市北区HPのハイキングコース案内によれば「ここで義経は兵を二分した」ということなのですが…。でもこの岩場もなかなかのビュースポット。九郎もこの岩の上に立ち、眼下に広がる神戸を見下ろして、さていかに攻むるかと思索したのでしょうか。

鵯越遊園墓地(南門)・鵯越の碑
 墓地南門の坂道を降りれば西神戸有料道路が通っており、道路沿いには鵯越の碑が建てられています。植え込みに隠れて肝心の碑が見えないよ!(かといって植え込みの上に這い登ってまで写真を撮る勇気のない私)
 碑の裏側には、この道は摂播交通の古道で源平合戦のとき源義経がこの山道のあたりから一ノ谷へ攻め下ったと伝えられる、と記されています。
 時は2月7日朝、さあここから三千騎もろともに「逆落とし」、平教経率いる一万騎が守る夢野口(一ノ谷の陣北の守り)の真っ只中に突撃だ!世に名高き一ノ谷合戦の、これぞハイライトシーンです。
 しかしもうひとつの進軍ルート「一ノ谷コース」を選んだ場合は、九郎直属の精鋭わずか七十余騎でもって藍那駅から進路を西にとり、険しい道を突き進み、鵯越よりさらに峻険な一ノ谷本陣の背後から、まさしくまっ逆さまの逆落としを仕掛けねばなりません。えらいこっちゃ!


おまけ・もうひとつの源氏進軍ルート:小野市〜三木市の史跡

小野市・浄土寺(じょうどじ)
 土肥実平に託された源氏勢七千余騎は加東郡東条町から小野市〜三木市を貫いてひたすら須磨へ向けて南下します。こちらのコースは平野が多く、大軍を率いての移動には適していたと思われます。その途のチェックポイントとなるのが小野市の浄土寺。建久三年(1192年)に建立された浄土堂は東大寺南門と同じ天竺式建築、本尊の阿弥陀三尊像は快慶作、ともに国宝
に指定されています。

三木市・弁慶の足跡
三木市内の農道沿いには弁慶の足跡なる石があります。さすが弁慶、“なんちゃって”史跡はこんなところにもがっちり残されておりますな。立て札の文章は以下のとおり。
 
三草山の戦いで敗れた平家は、三木を縦走して、一ノ谷へ逃げのびたが、これを追う義経軍も三木を通って鵯越へと向かいました。跡部の六ヶ井堰に近い畦道に「弁慶の足跡」といわれる大きな石があります。二つの石の表は地蔵尊が彫ってあり、その一つの裏側は人間の足跡のように凹んでいます。途方もないおかしな伝説ですが、跡部という地名や義経軍が三木を進軍したという歴史が、このような言い伝えになったものと思われます。
…みずから「途方もないおかしな伝説」と開き直ってる史跡もめずらしかろうて。ちなみに市内にはほかにも「弁慶の弁当」なる史跡もあるそうな。何でもありですホント。


MAP LINK
とりあえず自作マップ…すごくわかりにくい(泣)

この地域の正確な地図をごらんになりたい方は
こちらからどうぞ
(大きいサイズに変更した方が見やすいです)


今回訪れた市町村…
04(H16)年2月現在のデータです。

加東郡社町HP
加東郡東条町HP
美嚢郡吉川町HP
三木市HP
小野市HP
神戸市HP
神戸市北区HP(ハイキングコース案内)

 今回は「われながらモノ好きだなあ」と苦笑してしまうほどマニアック(しかも広域)な旅と相成りました。源平史跡めぐりというよりは北播磨・裏六甲の知られざる古刹名所めぐりといった具合に。でも、へんに手を加えたり観光化したりせず、手つかずの自然とともにいにしえの荒削りな雰囲気を残しておいてもらえるほうがありがたい気もします。ただ、私のような方向音痴歴史ファンのために、せめてもう少しわかりやすい道標などつくってもらえるとなおありがたいな…(行く先々で迷いまくった)。実は私、このルート数日に分けて踏破しています。車でさーっと通り抜けてゆくだけなら軽く一日ですむのですが、史跡に立ち寄ったり山にのぼったり(そして迷ったり)していると、結果的にかなりキツい行程と相なりました…。

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