(前回丹波路コース続編)
2010年11月10日
 2012年6月オミヤゲ情報追加・小野市「KOKUI」

 三草山から一の谷(須磨)へのルートは以前の旅日記でも紹介しましたが、あれからいくつか新しい史跡や逸話が見つかったので改めてご紹介します。それにしてもこのエリアの義経軍の足取りは調べれば調べるほど収拾がつかない。各地に点々と残された史跡や伝説を結んでいっても決して一本の線にはならない。進軍ルート、と呼べるようなすっきりとしたコースにはどうしてもならない。これはおそらく義経が自軍をいくつかに分けて進軍させたためで、義経軍が率いた精鋭部隊、土肥実平に託した軍、また途中で別れたいくつかの軍のルートがごっちゃになっているものと思われます。でもどの地も「ウチに義経(本人)が来たのだ」と言い張ってるので何が何やら。でもそれも人々の熱烈な義経愛の証だと思えば嬉しいもの。いろんなところでご飯を食べさせてもらったり水を飲んだり岩に腰かけたり松に腰かけたり、弁慶がひとりでおかしなことをしてたり、丹波路に引き続き播磨路でもひっぱりだこの義経様です。
前回の丹波路と同様、今回も場所がわかりにくい超マニアック史跡が多いので各史跡に地図リンクをつけています。各項のMAPのマークをクリックしてください。縮尺を変えたり航空写真に切り替えたりして現地イメージの参考にしてみてください。

篠原神社・能舞台
 三草山合戦の舞台・加東市から三木市に入り、県道20号線を加古川方面(西)に向かって走ります。口吉川町「殿畑」の交差点を右折するとすぐに鳥居と参道がみえます。その奥に鎮座するのが「篠原神社」。伝説によると、一の谷に向かう義経軍がこの前を通り過ぎようとしたところ、弁慶の軍馬が急にうずくまって動かなくなったので、この篠原神社に参拝して不敬を詫びたところ、ふたたび馬は立ち上がり歩き出したとのこと。数年前に改修された能舞台には義経や弁慶、また静御前や那須与一といった源平人物達の絵が飾られていて、義経ファン的にはなかなかテンションの上がる神社です。

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篠原神社・本堂
 篠原神社の本堂にはさらに古い時代の絵図や義経軍の進軍ルートが描かれた絵が掛けられています。また境内には「源平桃」という札のかかった苗木が!成長が楽しみです。この神社、義経ファン的にはかなり嬉しいスポットだと思うのですがあまり知られてないのが残念。かくいう私もつい最近まで知らなかった。三木市!がんばって宣伝してください。

弁慶の足跡
 県道20号線をそのままずんずん進むと、以前の旅日記でも紹介している「弁慶の足跡」があります。県道沿いに看板は出ているけど、そこからずーっと進んだ田んぼの中の農道にあるので見つけにくい。
 案内板みずから「途方もないおかしな伝説」と言っちゃってる慎ましいというか自虐的な史跡。市内にはほかにも「弁慶の弁当」なる石もあるそうですが三木市サイトに問い合わせてもわからなかった…。ほかにも「弁慶の清水」という史跡もあるそうだがやっぱりわからなかった…。三木市!がんばってくださいよまじで。
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義経の腰掛石
 三木市から少し北上して小野市に入ると、神戸電鉄・樫山駅の周辺に義経史跡が点在しています。まずは駅のすぐ脇の茂みの中にある「義経の腰掛石」。進軍中の義経が休んだといわれている場所です。腰掛“石”と呼ぶにはけっこう大きい一枚岩が横たわっています。この大岩は古代の古墳の一部らしく、それが義経伝説と結びついたもよう。
 駅のすぐ近くだからわかりやすいかと思ったら、超見つけにくい!民家の間のあぜ道のようなところを抜けていくので気が引けます。腰掛石の場所も民家の裏手の小高いところにあるので、足を踏み外すと民家の庭先に落っこちます。いろいろと気をつけよう。
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国位田(こくいだ)碑
 樫山駅から少し西に進んだ路地の中、樫山町公民館のすぐそばには「国位田の碑」があります。この地で休息を取った義経軍は地元のお婆さんにもらった「はったい粉」で空腹を満たし、その御礼にこの付近の田と永代の年貢免除を与えたといわれています。この免除は明治九年まで続いたといいますから、けっこうリアルな伝説なの…かな?碑には「國位免租地 源御守護神」と記されています。
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粉食坂・亀井が淵
 国位田の碑から少し南に下ると、道路沿いに写真のような石柱が立っています。小野市内の史跡には大体どこにもこのような石柱が立てられていて、いい目印になってます。小野市はがんばってる!エライっ!
 この石柱はそれぞれ「粉食坂」「亀井が淵」の史跡を示すもので、いずれも義経関連の史跡です。
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粉食(こくい)坂
 「粉食坂」は上記の「国位田」伝説に重なる史跡。お婆さんにはったい粉を食べさせてもらった義経軍はお腹いっぱいで元気になって、この坂を越えて一の谷をめざし進んでいきました。それゆえこの坂は「粉食坂」と呼ばれるようになったとか。小野市はこの伝説にちなんで現在「はったい粉(麦こがし)」を使ったお菓子を開発中、商品をめざしているとのこと。小野市は本当にがんばってる!すばらしいっ!商品化されたら絶対買います。買いまくる。近隣の市はぜひともこの姿勢を見習ってほしいものです。(とくに三木市)
2012年春「KOKUI」ようやく発売されました♪オミヤゲ情報参照♪

亀井が淵
 もうひとつの史跡「亀井が淵」は石柱から約100メートル先の田んぼのあぜ道脇にあります。義経の家来である「弓の名手」亀井六郎が山麓めがけて矢を放ったところこの場所に矢が刺さり、そこから泉が湧いたという伝説によるもので、義経軍はこの泉で喉を潤したといわれています。弁慶や鷲尾三郎、伊勢三郎、佐藤兄弟らにくらべるとかなりマイナーな家来・亀井六郎、ここでなぜかいきなり脚光を浴びる!彼が弓の名手だなんて今の今まで知らなかったよ…。

 
弁慶の重ね石
 粉食坂の石柱から少し西へ進むと加古川に行き当たります。「樫山町西」の信号を左折し県道18号線に乗るとまもなく左側に播磨CC(ゴルフ場)の入り口があります。その次にある細い小道を左に入っていくと、さあ弁慶さんトンデモ史跡の出番です。はったい粉をごちそうになり元気モリモリの弁慶、岩の上に岩を乗せて遊ぶ。そのパワーを戦にぶつけんかい。でもこの何の脈絡もない脱線ぶりが弁慶の弁慶たる所以なのかも。岩は石柱の立っている地点から斜面を少し登った山の中にあります。とくに道らしい道はないので、勇気を出して思い切って藪に分け入っていきましょう。
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義経道案内板
 ふたたび三木市内に戻って一の谷(須磨)方面をめざします。三木山森林公園と三木山総合公園の間にある信号付近には義経路の案内板が立っています。こういうのをみると、三木市がんばってる?とつい期待してしまうけど、現実は一部の郷土史家ががんばってるだけっぽい…。もっと!市をあげてがんばりましょうよ。
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判官神社(はんがんじんじゃ)
 県道22号線を南東方面に進み「西盛口」交差点を左折、そのまま道なりに進むと三津田地区に入ります。この地の東広野ゴルフ倶楽部付近の山中には「判官神社」と呼ばれるお社があります。伝説によると義経軍はここで地元のお婆さんに朱塗りの大椀に盛った玄米飯(or麦飯)を振る舞われて空腹を満たしたという…ん?さっきの小野市の伝説とカブってないか?それともこの辺一帯のお婆さんは総じて親切で食べ物を振る舞うのが大好きなのか。とにかくその伝説にちなんでこの地区では毎年一月十日(現在は建国記念の日)に世帯主が集まり、一人五合分のご飯を平らげるという「大飯講(おおめしこう)」が行われます。五合って!?めちゃくちゃだろ。現在は二合になったけどやっぱり食べ切れないそう。でもある年に中止したところ悪疫が流行ったので復活したとか…やめるにやめられない状態です。
 義経ファン的にはかなり嬉しい史跡(「判官」神社というネーミングが…!)&行事なのに、この神社、山の中に誰からも忘れ去られたかのような侘しいたたずまい。付近に案内板一切なし!大河「義経」の年には義経ゆかり史跡として新聞記事にもなったのに!(私はそれで初めてこの史跡を知った)社殿の横には一応神社のあらましを記した看板と、おそらく県道沿いに立ててあったのであろう案内板が置いてありますが…いやここに置いてても意味ないし。何の情報もなかったら誰もここにたどり着けないぞきっと。それぐらいわかりにくい場所です。三木市サイトに問い合わせてやっとこさ教えてもらった。三木市…がんばろうぜ!お隣の小野市に対抗して、玄米(or麦)を使ったお菓子とか作ろうぜ!
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福田寺(ふくでんじ)
 判官神社から県道85号線を東に進み、神戸市北区に入ります。呑吐ダム(つくはら湖)を左に見ながらどんどん進み、「坂本」の交差点を過ぎると、このあたり一帯は鷲尾三郎ゆかりの地。いくつか史跡が点在しています。
 まずは「福田寺」。鷲尾三郎一族の菩提寺で、本堂には鷲尾一族の位牌の間があります。屋根に描かれた日の丸扇の家紋は、鷲尾三郎が義経から日の丸の軍扇を授与されたことにちなむものだそう。
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鷲尾家屋敷(墓所)跡
 福田寺から県道85号線を挟んだ南側には田んぼと山が広がっており、その一帯は鷲尾三郎の屋敷があった場所とされています。写真のような石灯籠が目印で、石灯籠の下に立てかけてある木の看板をみると「鷲尾家墓所」という文字がかろうじて読みとれます。このあたり一帯は鷲尾一族が広く治めていて、この場所のほか須磨区多井畑、須磨区白川にも鷲尾家があり、それぞれ鷲尾三郎の末裔を名乗っているのだそう。それ以外にも、前回旅した篠山にも鷲尾家があるし…「鷲尾三郎のルーツ」は「義経進軍ルート」と同じぐらい諸説があって謎めいてます。
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丹生(たんじょう)山
 この石灯籠付近から北の方角に目をやると、丹生山がよく見えます。鵯越を目指す義経軍は迷いに迷ってこの山を越えたといわれており、山中には「義経道」と名付けられたハイキングコースもあります。この山を越えた(orふもと道をうまいこと辿ったかもしれない)義経一行はここから藍那(あいな)に向かい鵯越をめざします。藍那ルートは今回は省略…
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義経馬つなぎの松
 前回はひたすら歩いて訪れた市立鵯越墓園内の義経史跡、今回は車でアプローチ。車で行く場合、北門はお盆やお彼岸の時期以外は閉じているので南門から入るようにしましょう。北門から入ると、門の手前で車を置いて、広大な、しかもアップダウンの激しい墓園の中を延々歩いていかないといけない。もう二度と同じことはしない。そう固く決意せざるを得ないほど遠かった。でも園内を元気よくハイキングしてる人もいるので、時間と暇と体力のある人なら歩いていくのもいいかも知れない。私はしないけど。
 前回は殺風景だった義経馬つなぎの松、新しい案内板が立てられてる♪案内板によるとこの場所は義経公御陣の跡といわれ、ここで義経は軍を集めて合戦の相談をしたそうです。この場所(高尾山)からは山麓の和田岬方面がよく見え、そこは平家の陣が篝火を焚き一面火の海のようになっていました。それを見た義経は恐れるどころかその火を海女の焼く藻塩と見なし、「海女に会うのに武具はいらない」と笑い飛ばしたといいます。初耳な逸話ですが勇敢な義経らしくていい。
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蛙岩
 同じ鵯越墓園内の義経史跡、蛙岩もちゃんと「入り口」の看板が出てる!前回はなかったので、ここでいいのかな〜と不安にかられながら駐車場脇の山道を分け入っていかないといけなかった。山道は入るなり二手に分かれていますが進路を示す看板はありません。(このへん案内が中途半端なんだよなあ)そこを右手の道に進んでください。写真下のような大岩がみえてきます。これが「蛙岩」です。
 この蛙岩のあたりで義経は軍をさらに二分したと言われています。しかしどこからどう見ればカエルに見えるのか。いろんな角度からためつすがめつ眺めてみても、「これだ!」と思えるシルエットにはなりません。でもこの岩の上に立つと晴れた日は神戸の街並みがよく見渡せて、義経が進軍プランを立てるにはうってつけの場所だったことがうかがえます。
MAP※航空写真のほうが見やすいです

鵯越の碑
 鵯越墓園・南門前の道路沿いには前回も紹介した「鵯越の碑」が立っています。前回は植え込みに入ってまで写真を撮るのを迷ってた私ですが今回は何のためらいもなくガッと登って撮ったぜ!場数を踏んでだんだん肝が据わってきた。碑の裏面には「この道は摂播(※摂津と播磨)交通の古道で源平合戦のとき源義経がこの山道のあたりから一の谷へ攻め下ったと伝えられる」と記されています。
MAP※航空写真のほうが見やすいです


義経腰掛松
 さあいよいよ決戦地も目前、神戸市須磨区に入ります。多井畑の厄除八幡宮付近にある「義経腰掛松」。決戦を前にこの地の厄除八幡宮に参拝した義経が休息を取ったといわれる松で、切り株を覆う屋根がつい最近新築されました。この松はすでに60年前には切り株になっており老朽化していましたが、八幡宮の方が松の根を掘り出し樹脂を注入し、かたちを再現したそうです。伝説を風化させずきちんと次世代に伝えていこうというその心意気!大拍手を送りたい。ただこの史跡もかなりマイナーでファンの間でもほとんど知られてません。みんなどんどん訪ねていこう!
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  須磨寺駐車場階段
 義経腰掛松から県道65号線を南東に下っていき、須磨離宮公園前の交差点を右折してトンネルを抜けると、ほどなく須磨寺(福祥寺)の裏手に着きます。須磨寺はふつうは山陽電車須磨寺駅から続く参道を歩いてお参りしますが、裏手からも入れます。駐車場に車を置いて、階段orエレベーターで降りて本堂裏手の墓地に出ます。源平ファンはぜひ階段を使ってください。源平絵ギャラリーが展示されてますので。(写真参照)ほとんど敦盛(&熊谷直実)メインですが、ひとつだけ義経&弁慶の絵もありました。(写真下)弁慶が「一枝を伐れば一指を剪るべし」という制札を立てた「若木の桜」のエピソードと思われます。
MAP※航空写真のほうが見やすいです

 
須磨寺・平敦盛首塚と「きんぽとん童子」
 須磨寺は平敦盛ファンの聖地。上記のようなギャラリーはもちろん、平敦盛の首塚(写真上)や敦盛首洗池、また熊谷直実に呼び止められるシーンの騎馬像など、敦盛関連の史跡やモニュメントが本当に充実していて至れり尽くせり。
 とはいえ写真下のコレはいったい…「きんぽとん童子」。きんぽとん、て?金太郎の「金」、浦島太郎の「浦(ぽ)」、敦盛の「敦(とん)」。三人の人気者をひとつのキャラにした童子さんです。一応敦盛にゆかりのモニュメント…なのか?童子のお顔はなかなかかわいい。でもこれをみて敦盛ファンが喜ぶのかどうか私は知らない。

  宝物館
 須磨寺は源平ゆかりの古刹、であると同時に「変寺」としてちょっと知れたお寺。ありがたいのかふざけてるのかよくわからないナニコレ的なモニュメントがいっぱいあるので、歴史ファンじゃなくてもオモロイ物好きな人なら一見の価値ありです。
 以前の旅日記でも紹介した宝物館は青葉の笛や弁慶の鐘のほか、「小石人形舎」の歴史絵巻が展示されています。源平合戦のすべて(一の谷〜屋島〜壇ノ浦)を盛り込んだ、センサーで動く音楽つき大ジオラマもあれば、小窓に「常盤御前」や「勧進帳」などの名シーンがさりげなく飾られているコーナーもあり、源平ファンならじっくりと楽しめます。

  源平の庭・若木の桜
 写真上は敦盛と直実の有名なワンシーンを再現した「源平の庭」、手前の立て看板は光源氏が植え弁慶が制札を立てたという「若木の桜」。
 写真下は義経腰掛の松(奥)と敦盛首洗池(手前)です。京の都を発ってからそれはもういろんな岩やら松やらに腰かけてきた義経様ですが、これでひとまずラスト腰掛です。

 オミヤゲ情報  
  ひよどり越えパイ(1枚\147)
史跡はやたら多いのに関連の銘菓やグッズが皆無に等しいこの地域。そんななか燦然と輝きを放つのがこの「ひよどり越えパイ」!神戸市北区のフランス菓子店「ボンポアン」のお菓子です。246層に折り重ねたパイ生地にアーモンドが練り込まれていて、香り高いリッチな味わいとパリパリサクサクの食感は感動もの。「ひよどり越えパイ」というネーミングだけでも嬉しいのに、パッケージにも義経イラスト+義経進軍ルート地図が描かれているのがたまりません。ネットでも購入できるので遠方の義経ファンもぜひ味わってみてください。超!オススメです。
 

  KOKUI/粉喰(サブレ・フィナンシェ・スフレ2種・ダクワーズの5種類)
空腹の義経軍に「はったい粉」をふるまったという伝説にちなんで小野市のお菓子メーカーが開発した「KOKUI」(粉喰)。パサパサしていてお菓子には不向きというはったい粉(麦こがし)ですが、神戸の有名洋菓子メーカーの協力もあって、見事!美味なる洋菓子に仕上がってます。GJです。播磨路の史跡めぐりの際にはぜひこの「KOKUI」を味わって進軍中の義経気分にひたりましょう。
「おの恋」小野市観光協会 
販売店:イオン小野店 小野物産館オースト うるおい交流館エクラ 他市内コミュニティレストラン等
 
    
\1050(サブレ・フィナンシェ)・\2100(サブレ・フィナンシェ・スフレ)・\3150(全種類)のケース販売。
                                         パッケージのゆる義経&弁慶がまたかわいい。


 以前もたどったことのある播磨地方→神戸市北区→須磨ルートですが、とくに播磨エリア(小野市、三木市)で取りこぼしがたくさんあったので、それらを補完すべく改めて巡ってまいりました。(それでもまだ取りこぼしがある…)大河「義経」の年にはそれなりに気合を入れてたんだろうな〜という「祭りのあと」感がただよう史跡が多いのがちょっと悲しいけど、多井畑の腰掛松のように風化しそうなものをちゃんとリニューアルしたり、小野市のように石柱を立てて史跡の場所をわかりやすくしたり等、地域によってさまざまな工夫や努力をされているのをみると力づけられます。小野市の史跡は前々からテレビや新聞で取り上げられていたので知ってましたが、隣の三木市にも思いのほかたくさんの義経史跡があったのがびっくり。でも紹介してくれないと誰も知らないままで終わっちゃうよ!もっとガンガン宣伝していきましょうよ。ゆかり銘菓のひとつでもつくってくださいよ!と、前回の篠山旅日記でも同じことを言ってたな…。とりあえず義経ファンがたくさん訪れるようになれば自治体も重い腰をあげてくれるんじゃないかな〜と思うので、交通の便がなく回りにくいエリアではありますが、皆さんぜひ訪れてみてください。そしてお土産物屋さんで「えっ!義経グッズないんですか!?」とアピッてみてください(笑)地道な努力がいずれ実を結ぶ?かも。

2004年のほぼ同ルート(※後半)旅・へどうぞ→→→
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