幕末ぶらりんこ 03’ 仲秋編
・・・新選組関係・・・

この話は「京都日帰り・養源院」から始まります。                 この話は「龍馬展と二条城」の続きです。

日帰り京都・新選組史跡巡り(散策日:9月13日)

二条城を見学した後、タクシーで壬生へ向かいました。(LAWSONさんは最初、歩いて壬生まで移動しようと計画していたらしい・・。汗&笑)壬生では、はじめに旧前川邸へ行きました。立派な門をくぐって母屋の入り口へ。旧前川邸の現在の持ち主でいらっしゃる田野様ご夫妻が、いらっしゃいました。ご主人とLAWSONさん、ゆかっちさんが談笑している間、奥様と少しお話しさせていただきました。旧前川邸をご購入になる時のエピソード(新選組の屯所だった屋敷だとは知らなかった事など)や、また、表通り、門のすぐ右側にある出窓は野口健司が切腹した部屋だという事、山南敬介が切腹した部屋の出窓(例の「明里」と涙の別れをしたという)はとうに取り外され、現在その部屋は仏間になっているという事です。(門の左側にあった出窓も、現在は取り外されています。)土蔵は今、修復工事中で、ジャッキで床を上げての大掛かりな修復工事。11月ごろには終了するとの事でした。古い屋敷を維持する事は本当に大変。でも、素晴らしいですね。歴史ある屋敷を大切に守り、維持なさっている。新選組ファンとして、彼らの住んでいた建物が当時とほぼ同じ形で在るというだけで、これほど嬉しい事はありません。来年、東京で行われる「新選組展」にも、旧前川邸関係のものが出品されるそうです。そう、「京都・新選組展」とは違ったものも?? 今から楽しみですね。ご夫妻にお会いできて、楽しいひとときを過しました。


旧前川邸 母屋入り口(グッズ販売場所) 土蔵(修復中の方ではない)


旧前川邸を出て、八木邸(今日は外から見学)、新選組グッズの店「京屋忠兵衛」さんの前を通り、新徳寺へ。(こちら非公開のため、外からの見学) そして壬生寺へ行きました。 昨年訪れた時と、また変わっていて、地蔵堂の建物がグッズの販売所と一緒になったのか、かなり建物は大きくなっていました。拝観料を払って壬生塚へ。その後、寺の南門を出るとすぐ斜め前にある壬生村共同墓地へも行きました。昔、本で見た古い古い入り口の門扉は、なんだか場違いな・・一般家屋の玄関扉のようなものがつけられていました。(汗) 中へ入ると・・、狭い場所にひしめくように古い墓石が並んでいました。「これが八木源之丞の墓です。」LAWSONさんが教えて下さいました。小さな小さなお墓です。言われなければ見過ごしてしまいそうな・・・。「これが、南部亀次郎(※南部邸は八木家の南側に隣接していた家で、壬浪浪士組の分宿所になっていた)の父親の墓。」八木源之丞の墓と目と鼻の先にありました。もっとゆっくりまわれば、他にも新選組に関係した人物の墓があったのかもしれませんが、先を急ぐゆえ、早々に墓地を後にしました。(※ご存知だと思いますが念のため。現在壬生塚にある芹沢鴨他の墓は、元々この壬生村共同墓地にあったものです。)



新徳寺

新徳寺内(右側が本堂)
壬生寺門前の灯籠(裏に八木家の名前)


仏光寺通りに出て少し歩き、肥後藩邸跡の石碑のあるところへ来ました。慶応元年十月に新選組隊士(武田観柳斎、伊東甲子太郎、沖田総司が肥後藩京都留守居役を訪れた記述が残っています。肥後藩邸と壬生の距離はほんの5分程の距離。肥後藩は藩邸内から新選組に関するいろいろな事を見聞きしていたのではないでしょうか。 そこから西本願寺へ。・・・あ、そうでした。西本願寺へ行く前に、明治になって西本願寺の守衛をしていた島田魁の当時の住居があった場所にも立ち寄りました。本当に、狭い狭い通りです。島田があの大きな身体を小さくして通っていた姿が目に浮かびます。(笑) そして西本願寺。北集会所跡に建つ建物、幕末当時もその場所にあったという太鼓楼と一緒に写真に収めました。


肥後藩邸跡の石碑 島田魁住居跡(通りの奥付近) 西本願寺・北集会所跡 西本願寺・太鼓楼


油小路通りに入り、天満屋跡(中井庄五郎殉難の地)を見て、そしていよいよ油小路の変の舞台、七条油小路に出ました。 

ここでちょっと小休止
この七条油小路の十字路のところを、七条通り、右にちょっと行くと、美味しいうどん屋さんがあるのです。(LAWSONさんご推薦。・・と、ここまで書いて心配になってきた・・。あれっ?うどんだっけ?ラーメンだっけ?滝汗) 「お昼を軽くして、後でうどん(たぶん・・うどんです。汗&笑)食べましょうよ。」という事で、楽しみにしていたんですが、油小路へ着いた時には、既に午後4時を過ぎていたので、お店は閉店していました。(涙))

(10月30日・追記)上記で話題の油小路のうどん屋さんは「大阪屋」さん、全国各地のたぬきうどんが食べられるお店です。

さて、本題に戻ります。(汗&笑) 七条通りを渡って本光寺へ。 門のところについているブザーを押すと、中からご住職(尼僧)が出てこられ、油小路の変について説明して下さいました。門の中にある甲子太郎が絶命の際、腰を下ろしたといわれる門派石も拝見しました。時刻がくなっていたせいか、薄暗くてひんやりとした感じで、「うう・・ちょっと・・・。」という感じでした。(汗&笑) 尚、門派石の奥にあった山門が道路側に移されたので、石は現在は門の内側に位置しています。(門派石自体は油小路の変当時と同じ位置。) お寺の猫なのか、悠々と寝そべり、こちらを眺めていたのがなんだかおかしかったです。(笑) ご住職はかなりのご高齢。にも関わらず、遅い時間に訪れた我々のために、わざわざ出てきて下さって、なんだか申し訳なかったです。 本光寺の斜め前に油屋さんがあるのですが、店構えから、幕末以前からあの場所でご商売をしているように思えました。「もしかしたら、ご先祖が油小路の変をご存知なんじゃないか・・・。」そんな話をしながら、堀川通りへ出ました。



七条油小路

本光寺
天満屋跡(中井庄五郎殉難の地) 本光寺・門派石


木津屋橋通りから堀川通りを見て、少し下がったところが、西本願寺から慶応二年六月に移った不動堂村屯所跡付近、そして真ん中あたりが醒ヶ井の近藤勇妾宅跡、そして、少し上ったところが原田左之助住居跡がある鎌屋町付近。不動堂村屯所と醒ヶ井の妾宅は本当に目と鼻の先です。伊東甲子太郎が絶命した本光寺もすぐの距離。慶応三年十一月十八日の様子が、私の頭の中に浮かんできました。(尚、不動堂村の屯所に新選組がいたのは半年足らず。この後、慶応三年十二月十二日に伏見奉行所へ移転しました。)



不動堂村屯所跡の石碑

醒ヶ井・近藤勇妾宅跡付近
不動堂村屯所跡付近 北不動堂


最後にこの不動堂村・地名の由来にもなった北不動堂へお参りし、京都駅へ。ここで午後5時半。しばし休憩の後、本日、午前の京都国博・「新選組」展からのガイド役を引き受けてくださったLAWSONさん、そしてゆかっちさんとお別れをし、東京へと戻りました。

気温35度の中、よく歩けたなぁと思います。特に二条城が暑さのピーク。かなりへばりました。(笑) しかし、新選組史跡勉強のため、8月から京都の関連史跡をまわっていたLAWSONさんにとっては、当日の暑さは大した事なかったそうです。(す、すごい・・汗) 「ゆりこさん、泊まればよかったのに。もったいない。そうしたら次の日、大阪の関連史跡にも連れて行ってあげられたのにね。」
LAWSONさんのこの言葉に内心「感涙・・・。」 楽しくて有意義な京都の一日を過ごす事ができました。LAWSONさんとゆかっちさんに感謝。(拝)