幕末ぶらりんこ 七夕編


 この話は「いろんな処ぶらりんこ・函館」からの続きです。                   いろんな処ぶらりんこ・函館

 弁天台場跡から碧血碑まで 〜函館ぶらりんこ〜 (散策日 7月10日)

ずぶ濡れにならながらもタクシーを捜しましたが、まったく来る気配はなし。(溜息) そのまま市電の通る道を歩いて行きました。途中「末広町18」の表示板が。「ここって、もしかして「田本研造写真館」のあった場所?」などと思いながらあたりをキョロキョロ。 「異国橋」・・・歳三が戦死したところと島田魁や中島登が書き残している場所です。現在は末広町と豊川町の間くらいらしいのですが、タクシーの運転手さんに聞いてもチンプンカンプン、まったくわかりませんでした。末広町は何となく歳三ファンには気になる場所です。 やっとタクシーを見つけ弁天台場跡(現在の函館どっく)近くまで乗りました。ちょっとわかりづらかったんですが、函館どっく(造船所)の通用門右脇に「弁天台場跡」の表示がありました。もうボロボロ。 古すぎてよく読めない・・。 「中島三郎助親子最期の地」の石碑の事を訊ねた際のタクシーの運転手さん、五稜郭の芝の手入れをしていた男性、そして函館どっくの門のところにいた守衛さん、この方々がおっしゃっていた言葉が「何でそんなところへ行くの?石碑がひとつあるだけだよ。(木の杭一本あるだけだよ。)」でした。・・・いいんですよ。石碑ひとつで。 約130年前、この場所で自分たちの正義の為、精一杯戦った人たちがいたという事を感じ取れればいいわけで、此処で国宝・重文級の建物を見たいわけではありません。(この気持ちは新選組ファンの方にはわかっていただけると思います。)


弁天台場跡の碑



函館どっくからタクシーに。(今回の旅は本当にタクシー代が大変でした・・・。)  高龍寺と称名寺へ行きました。 
高龍寺は箱館戦争当時、旧幕軍の野戦病院があったところです。 明治2年、松前・津軽兵に此処は襲われ、収容されていた多くの負傷兵は斬殺、挙句の果てに火をつけられ逃げる事もできずに焼き殺されてしまいました。 明治10年、会津残同体の名で境内に「傷心惨目」の碑が建てられました。(犠牲者の多くが会津人であったという説有り) 雨の中、合掌。



高龍寺本堂
高龍寺・「傷心惨目」の碑



続いて称名寺へ。ここは箱館戦争終結当時、旧幕軍の降伏者の収容所でした。ここにも歳三の墓があります。墓石に「歳進院殿誠山義豊大居士」と刻まれていました。合掌。
※写真なんですが、私の大ドジで左に指が写ってしまいました。(T□T) 申し訳ありません。 ご辛抱下さい。。。



称名寺・土方歳三の墓(ゆ、指が・・)



元町の旧函館公会堂を見学。函館山はガスがかかっていてダメダメ状態です。(とほほ・・) この後教会だけでも見学しようかと思っていた矢先、娘がブチ切れました。「もうやだ!早く温泉に入りたい!」 なので教会はカット。 碧血碑へ向かいました。

石川啄木一族の墓の前を通り過ぎ、立待岬も過ぎて車はどんどん人のいない山奥へと入っていきます。 「車は此処までです。待っていますから。」と運転手さん。 本当に寂しい場所です。ちょっと一人で来る勇気はありません。 碑へと通じる雨でぬかるんだ道をどんどん歩いて行きました。この時、へんな事がありました。碧血碑の近くまで来た時、碑の方角から男性の咳払いが聞こえたのです。「あれっ?こんな雨の中、私たちの他にもお参りに来てる人がいるんだ。」と思いながら碑のところまで来ました。・・・誰もいない・・・。わきの道の方まで確かめましたが人っ子ひとりいませんでした。 

まずは合掌。 そして写真を撮ろうとした時に娘が、「ママ、いるから撮らない方がいいんじゃないの?」 私、「出てきてもらいたいくらいだから大丈夫。(笑)」 そして、「撮らせて下さいね。」と声をかけパチリ。 いったんあずまや(碑の前、右側に何故かある)に入り、線香に火をつけました。やむ事のない雨。 「さあ、お線香ですよ。」と言いながら線香をあげました。再び合掌。 タクシーの待つ場所へ戻りました。

※ 碧血碑での出来事は「いろんな処ぶらりんこ・不思議な体験」で補足致します。いろんな処ぶらりんこ・不思議な体験へ



碧血碑



ここで本日の函館ぶらりんこはおしまい。 函館本線で洞爺まで行き洞爺湖温泉に泊まりました。 

 話は「札幌・永倉新八の墓」へと続きます。(「進む」をクリックして下さい。)