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10. 遵 守
スポーツの中の個人競技はだいたい、礼に始まって礼に終ります。馬術競技の場合も例外ではなく、審査席に対して礼をした時点から
タイムが採
られます。
1991年の夏、福島でインターハイの団体戦が行なわれた折、私も審査員として初めて関東以外の選手の演技を三日間にわたり見ること
ができました。そして全国各地の高校戦を勝ち抜いてきた各選手の試合にのぞむ態度や敬礼をみた時、試合そのものよりも各選手のあま
りのだらしなさに肝をつぶしてしまいました。それはまさに競技以前の問題であり、とくに、最終日の閉会式の際の入賞者の無礼な態度等
は、まさに言語道断と言わざるを得ず、昭和一桁
の人間には想像もできないことでした。
信じられないことですが、閉会式に整列した選手は一人として「きをつけ」が満足にできず、大半の入賞者は半身にかまえて、しかも
片手でカップや賞状を受取っていたのです。
そこで、それから三週間後の九月上旬に東京で行なわれたインターハイの個人戦に、競技委員長になったのを幸い、競技会の前日、
出場選手およびその学校の監督(先生)の全員を集め、「きをつけ」「礼」および賞杯等を受取る時の作法を高校生らしく、きちんとする
ようにときびしく申し渡しました。
そしてその外にも、国際競技のルールブックにはっきりと記載されている遵守
事項をきっちり実行するように付け加えたところ、驚い
たことに一人の先生から「もしも遵守事項を生徒が守らなかった場合、競技委員長としてどうされますか」という質問が出ました。
その先生は、西村があんなことを言っても、どうせ自分達の学校の生徒は守りはしない、と思っての質問でした。
憤然とした私は、「遵守事項には、それを守らなかった場合のペナルティーはない。遵守事項とはぜったいに守らなければならない
規則なのだ」とはっきりと再度申し渡して、不満そうな先生や生徒の目を意識しながら、実際にその会議の席上、何人かの生徒に「きを
つけ」「礼」をやらせてみました。
さて、第一日目の競技当日、選手の中には平素やりつけないために多少のぎこちなさがあったり、また緊張のあまり間違えた敬礼を
して、やりなおした者もいましたが、二日目の競技開始前に再度選手全員を集合させて注意した結果、一人の間違い者もなく全員立派な
敬礼をしてくれました。
そして閉会式では常陸宮妃殿下の前で、きちんとした態度で整列し、国歌吹奏による國旗降納及び賞品授与式を終了することができました。
最後に審査委員長講評の際、技術的講評に付け加えて、出場選手全員に対し、立派な態度をとってくれたことに心から感謝の意を表し
ました。教育とは読んで字の如く教え育てるものです。今回のことは一般の高校での授業と違い、馬術競技ということで、もし違反をし
たら自分の成績が零点になってしまうというおそれも手伝って、あるいは仕方なく規則を守った人も何人かいたでしょう。しかし私は
それでも良いと思うのです。
そして悲しいことですが、このように家庭や学校で基本的な権威が失墜してしまった今、もう一度、親や教師の権威について考えてみる
必要があると思いました。
すなわち、権威とは、権威→促進→悦服であり、権力とは、権力→抑圧→屈伏なのです。
権威は英語でオーソリティといいますが、これには創造してゆくもの、発展せしめるものという意味も含まれております。
権威とは「愛情」である、といった社会学者がいます、権威のもとに、すくすくと伸びて(促進)、しかも温かく抱かれた愛情のもとに、
喜んで服する(悦服)ことが大切なのです。いやいや守った規則であっても、守らせた人の熱意と真意が生徒達に通じれば、いずれ自から
進んで規則を守るようになるものです。
池田潔の名著、『自由と規律』の序文に、小泉信三先生は次のように書いております。
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「英国の学校の試験に絶えて不正行為の行なわれないというのは、そこでは厳たる事実である。
個人の自由は最高度に尊重せられつつ、而かも規律というものに対して人が黙々として服従することも事実である。
学校教師の権威は問うことを許さぬものとせられつつ而かも生徒は是非の意見を憚るところなく言い、教師もまたよく之を容れるのが
当然の事とされていることも事実である。また、世界の健強なる国民が大学以前の青少年に、人間の尊貴とその義務の重きことをいかに
教え、彼等の道義心の涵養と道徳的勇気の鍛練とをいかに行ないつつあるかと言う事である。
付け焼刃でない民主主義の確立、ここから出発しなければならない」
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と。
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