9. 親 父

 1989年春、久しぶりに会った日本設備工業新聞社のN氏と、新宿の天麩羅(てんぷら) 屋で一杯やりながら、まだ私が一所懸命に仕事をしていた頃の 昔話や、私の趣味の馬の話等、とりとめのない話のなかで、突然N氏が、「最近わが社も月刊誌を出したのですが、読者の中に、私も含 めて競馬きちがいが意外に多いんですよ。堅い技術の記事の中に息抜きとしてひとつ"競馬必勝法"でも書いてみませんか」といわれ、 酒の酔いも手伝って、「それなら五、六か月だけ引きうけよう」ということになり、それ以来ずるずるとじつに三年半、なんと私の連載 も現在四十回を数えております。
 物書きでもない私が、よくもまあこんなに続いたものだと、いま改めて以前の文章を読みかえしてみて、その度胸の良さというか、 厚かましさにわれながら、あきれている次第です。
 しかし、これもまた、その時々の私の人生遍歴というか、精神の遍歴の記録のような気がして、毎月何かきまって書かせていただくと いうことが、私の人間として生きていく上での一つの原動力になっているようにも思えて、N氏との出会いもまたいまさらの如くありが たいことと受けとめております。
 人間が生きていくための原動力にはいろいろなものがあると思われますが、しょせんはいかに今を退屈しないで過ごそうかということで あって、例えてみれば勉強をしたり、金儲けをしようと血眼になったり、芸術的なことや宗教的なことを少々かじってみたり、あるいは、 競技会で優勝するために馬術に精を出すのも、みな、人間退屈しのぎの大道具・小道具にすぎないといったお坊様がおりました。
 だとしたら、何一つ大道具・小道具のないガランとした空屋で演ずる人生劇より、お粗末でも一応大道具・小道具の揃った舞台で演ずる 人生劇の方が華やかで、楽しく、またやり甲斐もあるというものではないでしょうか。
 そう思って、さてこの三年半の私の小道具遊びをふりかえってみた時、私は一つの重大な事実に気がつき傍然とさせられました。
 それはどういうことかというと、私の大道具・小道具はじつは、その大半を、私の親父が私のために作って残しておいてくれたもの だったということです。生きているうちは何かにつけて反抗ばかりして、いつも親父の話はつねにうわの空、この私の人生観は自分一人 で考えたものだとばっかり思っていたのに、いざ私の書いた文章を読みかえしてみると、悔しいことに親父が生前何気なくしゃべっていた ことが随所に出てくるのです。結婚して三年目、生後七か月の私を残して最愛の妻に先立たれ、二度目の結婚でやっと生まれた娘、 (私の腹違いの妹)も七歳で亡くした父は、私など想像もできない悲しみを乗りこえて、いろいろと悟るところがあったのでしょう。
 1983年3月30日が、その親父の命日です、親父の亡くなった日の夜、親戚の人達がわが家に集まって、一人息子の私の帰りを待ちながら、 お通夜をやっているというのに、当の私は三月末の資金繰りがなかなかつかず、とうとうお通夜に間に合いませんでした。その日の夜 おそく疲れ果てて帰宅した私に注がれた親戚の人達の冷たい眼差し、事情を説明することもできず、なぜ一年中で一番大切な年度末に 死んだのだろう。寿命とはいえ、もう少し時期をおくらせてくれたら、とその時は恨めしく思いました。
 しかし、今こうして三年半の私の小道具遊びをふりかえってみると、やはり思い出されるのは、息子の道徳教育には異常なまでに厳し かった親父のことです。
 小学生の私に論語を教え、吃りだった私に謡曲を教えてくれた父。母親に口答えをしたために雪の中にほうり出され、水をぶっかけ られ、自分も一緒に水をかぶってくれた父。台所にはついに一度も入ったことがなく、食事の時にはぜったいに膝を崩させてくれな かった父。
 大学生だった私に、パチンコで稼いだ景品を返してこいとどなった父。電車の出札口で駅員に切符が不正だと、とがめられ、「俺の顔 が不正を働くような男に見えるか、馬鹿者!」と顔色をかえて駅員をどなりつけた父。胃癌の手術の後、意識のもうろうとしていた集中 治療室で、いま福沢諭吉先生と話をしてきたなどという明治生まれの父。
 私にとって親父はやはり懐しく偉大な存在だったのです。
 この世の中で、父親と仲が良かったなどという人はあまりいないと思いますが、高校の生徒と接する機会の多い今の私としては、どうも 近頃の父親がなんとも物わかりが良すぎるように思えてなりません。
 子どものご機嫌取りに一所懸命で、何とかして話しのわかる父親になりたいと努力するのも、子どもの時の親の道徳教育の失敗から、 下手をすると、自分の子どもが何をしでかすかわからないという不安が常につきまとっているからなのでしょう。
 子どもが正しい常識を持ち、愛情豊かな立派な社会人になるように教育するのは両親の義務です。
 義務教育は何も国家や学校がするものではありません。
 戦前、国家が子どもの教育の義務づけをした一つの目的は、天皇のために喜んで死ぬことのできる人間をつくるために、大日本帝国 として教育する必要があったからです。
 小学校教育は別として、中学校教育以上は両親や本人の希望によってはじめて学校が行なうべき筋合のもので、学校の教育方針に従わ ない子ども達まで、学校が面倒をみる必要はないはずです。
 また親が子どもの道徳教育を怠った結果、未成年者が() りに法を犯したとしたら、その罪は両親が受けるべきです。
 昔の無宿者とは、住むべき家のない人というより、戸籍のない人のことをいうのです。昔は 何歳になっても子どもが悪事を働けば、 その(るい) は本人はもちろん、一家眷族(けんぞく) にまで及んだために、親の方から、素行の悪い子どもの戸籍を、あらかじめ抜いてしまったところから、無宿者が生まれたのです。
 がんらい、子どもは仏様から「お前達のところで立派な人間に育てなさい」と見込まれてお預りした大切な預り者です。
 仏様の期待に反した教育をしたら、罰を受けるのは当然、子どもではなく両親のはずです。ややもすると、学校や社会のせいにして 責任を逃れようとする親の多い世の中、またそれをすぐに学校の管理不行き届きにしてしまう裁判官の馬鹿さかげん。
 私があえて高校の馬術連盟の会長を引きうけたのも、馬術を通じて家庭や学校ではできない教育をしてみたかったからなのですが、 これもやっぱり親父の私に残してくれた小道具遊びの、退屈しのぎの一つなのかも知れません。