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7. 腹がへったら飯を食え
私が入院していた新宿の病院に、心臓のどこが悪いのか、いつも青黒い顔をして痩せ衰え目ばかりギョロギョロさせた五十歳代の男の
患者がいました。
その人は、私が手術後のリハビリのつもりで病院の廊下を行き来するたびに、いつもきまってベッドの上に上半身を起こして、隣りの
患者の迷惑も考えずワープロをたたいているので、看護婦さんに冗談半分「あの人は遺言状でも作っているの」と尋ねたら、「とんでも
ありません。何か会社の仕事をされているようですよ」との返事でした。
またある日隣りの病室に、中小企業の社長によくあるタイプの、つねに人を見下すようないやな目付の男が、秘書かと思われる若い女の
人に、かかえ切れないほどの書類を持たせて入院して来ました。
そして次の日から毎日、だいたい決まった時間に、社員とおぼしき人が、時には二、三人でやってきて、おそらく昨日の報告や今後の
打合せ等をしているのでしょう、一たん病室の前の廊下で再打合せをしたうえ、病室に入り一時間程して帰っていきます。またある時など
はその人の病室から何やら社員を叱りつけているような大きな電話の声さえ聞こえてきました。
私は手術後、病院のあの一種独特な、よどんだような空気がいやで、常に窓と廊下に面した扉を開けて、ベッドには寝ずに病室の
ソファーに腰掛けて本等を読んでいたため、廊下をどんな人が通るかよくわかったのです。
働くことしか知らない日本人、仏様が少しは休むようにとせっかく与えて下さった大切な時間まで、どうしてそのように齷齪
と働かなければならないのでしょう、他人にはわからない、どんな事情があるにせよ、せめて病気の時ぐらい、というより病気になったこと
を感謝して、ゆっくりと体を休めても決して罰は当たらないと思います。
狭い社会の中にどっぷりとつかって、そこから飛び出す勇気のない人達、いつも集団でしか生きることのできないばかりか、集団の中
でのみ安心感を見出す人達、その結果、人間としてもっとも大切な自由と個性を見失い、集団の中に組込まれ、それが習慣となって
しまった哀れな人達のなんと多いことか。
手術後の検査のため、車椅子に乗って検査の順番を待ちながら、その車椅子を押してくれていた看護婦さんに、「病院の先生や貴女達
が夜も寝ないで一日も早く病気がなおるようにと一所懸命に看病してくれているのに、病院にまで会社の仕事を持ち込んで、何とか病気
がなおらないようにと努カをしている不心得者がずいぶん多いね。上の人がいないほうが、社員はかえってのびのびと良い仕事をするの
にね」といったところ、柱の影に、たまたま隣りの病室の杜長さんがいて、すごい顔でにらまれてしまいました。入院した以上、体の治療
は病院にまかせて、どんな些細
なことでも病気にさわるようなことは極力さけて、自分は心の治療に専念するのが医師や看護婦さんに
対する礼儀です。
中国の唐の時代、大珠慧悔禅師という高僧に一人の禅僧が尋ねました、「禅の道はどのようにしたら開けますか」と。
その答は「腹がへったら飯を喰い、眠くなったら眠ればよい」というものでした。
飯を喰う時には何も考えずにただひたすらに飯を喰べなさい。今やっていることだけに集中しなさいという意味で、同じようなことを
曹洞宗大本山総持寺の開祖瑩山
禅師は「茶
に逢ふては茶を喫し、飯
に逢っては飯を喫す」といっております。
般若心経の彼岸にいたる六つの実践行の一つ「禅定」もまた、現在していることだけに心を集中せよという意味だとわかっていても、
いざ現実の問題として考えた時、自分の好きなことや興味のあることをやっている時には雑念を払って心を集中できても、会社の経営が
苦しく、過労のために病気になって入院を余儀なくされたような場合、私も経験がありますが、会社の資金操り等を一切考えずに治療に
のみ専念するのは至難の技だと思います。しかし不思議なことに今回の入院時には、家や会社のことなどすべて忘れて、病院の規律に
従って養生に専念でき、また周囲の雑音にもまどわされず、読書や考えごとに専念できたのは、ひょっとしたら死ぬかもしれないという、
人間にとってもっとも重大な問題に直面し、幸いにもそれを美事に克服できたという悦
びと感謝の心があまりにも大きかったため、他の
ことなどを考えるゆとりがなかったからだと思います。それが証拠に退院して独
り書斎で静かに本を読もうとしても、手術から三か月も
たつと感謝の気持もうすれいろいろな雑念が次から次と頭に浮んできて、読書だけに没頭できなくなってしまったことでもわかります。
われながらつくづく修業の足りなさを痛感すると同時に、私のような凡人は出家でもして自分の身のまわりの環境を変えないかぎり、
「腹がへったら飯を喰う」の心境にはなかなかなれそうにもないと変な悟り方をしてしまいました。
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