6. 生かされている生命

 「貴方は自分一人で生きていると思ってはいけません、自分が生かされて生きているのだという事実をつねに 念頭において、一瞬一瞬を大切に生きなければいけません。私達の命は仏様からお預りしている命であり、仏様が、 お前の命は返してもらうことにした、といわれれば、私達は絶対に『ノー』とは言えません」私達は以上のことを、 宗教関係の本等によって、観念的に理解できます。
 しかし「ああありがたい、私は本当に仏様によって生かされているのだ」と実感として受けとめることのできた 幸福な人は、そうざらにはいないと思います。
 しかし幸いにも、私は、それを実感として受けとめることのできた数少ない男なのです。なぜならば、重症の 心臓弁膜症の手術を、五回の不思議をいただいて無事に克服し、今まで経験したこともないような健康体をいただい たからで、その五回もの不思議とはじつは次のようなものだったのです。
 1988年の夏、一度目の心臓発作をおこして横浜の病院に担ぎこまれた私は、十日程の入院で幸いにも薬によって 一応病状をおさえ、人工弁にされずに退院することができたのですが、もしその時、人工弁をつけていたら、私は 間違いなく第一級の心身障害者として一生涯薬の御厄介(ごやっかい) になり、つねに赤い手帳を首からぶらさげ、薬の副作用に よってけがをすれば血が止まらないという、つねに爆弾を抱えた体になってしまうところでした。
 そして二度目の発作がおきた1991年には、以前よりさらに病状が悪化して、検査の結果、四度(最悪)の心臓弁膜症 と診断され、一年以内にようすをみて人工弁の手術をしましょうとかかりつけのA医師に宣告され、もはや(まないた) の鯉と覚悟をきめてから 約十日後、たまたま先生の奥様から、お中元のお礼の手紙をいただき、その中に「主人は近々山梨の方に参ります」と書かれてありました。
 さあ大変、そうなると手術はおろか毎日の薬さえもいただけなくなると驚き、嫁ぎ先の娘も非常に心配して、わざわざ電話帳で 心臓病専門の病院を調べ、とりあえず私の承諾もなしに新宿のある病院の診察の予約をとってくれました。
 しかたなく私も、新しい病院の先生はいったいどのような診断を下すのだろうかと、多少の不安を覚えながら診察の日を待っていた ある日、A医師からの電話で転勤ではなく二か月程病院を休み田舎に行ってきますというのです。
 「山梨に参ります」というのは、じつは転勤ではなく「休暇をとります」という意味だったのです。そこでさっそく、私の誤解と他の 病院の予約をとってしまったことを話し、従来通り診療の継続をお願いしましたが、A医師は心臓の手術なら新宿の方がいろいろな面で 良いように思うので、私のことは気にせずに、その病院で手術をしていただきなさいといって、親切にも紹介状にそえて今迄の私の カルテを渡してくれました。
 次の日、その紹介状を持って新しい病院に行った私に対し、驚いたことに初対面のはずのB医師は「やあ、どうされましたか、 お久しぶりですね」とじつに親しげに言うのです。
 それは明らかに人違いなのですが、私も咄嵯(とっさ) のこととて、その人違いを正す方法を思いつかぬまま、「はあ、じつはこれこれで」 と今までの病状を話しました。
 B医師は私の体を丁寧に診察し、いろいろな検査の段取りを組んでくれた後、「検査の結果をみて手術と決ったら、この病院で一番 信頼しているC医師に執刀していただくようにしましょう」と言ってくれました。
 検査の結果はやはり手術が必要で、紹介された先生は「多分人工弁になると思いますが、つい最近アメリカで成功した心臓の形成手術 ができるかもしれません」と言って、人工弁と本人の弁の形成手術の違いをくわしく説明してくれました。
 それによれば成功率は低いものの、もし形成手術ができたとしたら、まったく普通の人としてもう一度社会復帰ができるということ でした。私も何日か真剣に考えた末、家族の同意を得てなんとか形成手術をして下さいとC医師にお願いしました。後で聞いた話ですが、 そのむずかしい手術のできる先生は日本に二、三人しかいないとのことで、B医師の人違いがなければ、あるいは同じ病院でも事務的に 別の医師にまわされて、人工弁の手術をされていたに違いありません。
 さて、それから何週間か立って手術の前日、改めてC医師から私の家内と娘が呼ばれ、私の心臓の色々なデータを見せられて、形成手術 の成功率の低さや、むずかしさについて改めて説明を聞き、非常に不安な気持で家に帰った家内のところに、半年以上前に、私が注文を しておいた乗馬用の長靴が届けられてきました。
 「明日、ひょっとしたら死ぬかもしれないというのに、貴方は一体何を考えているのですか」。
 電話口の家内の声はふるえていました。私が手術をすることなどまったく知らない四十年来の長靴屋から手術の前日に届いた長靴。 その時の私には「西村さんは手術なんかではぜったいに死にません。また良くなってこの長靴をはいて競技会に出場して下さい」と言って いるように思えて、翌朝私が手術室に入る前に、必ず病院にその長靴を持ってくるようにと言って電話を切りました。幸いにも手術は 大成功で、病室にもどった私のベッドの上に安置されたその長靴は、見舞客の質問攻めに会いながら、退院する迄の四十日間絶えず私を 励ましてくれたことはいうまでもありませんでした。
 以上のように、

一、 最初に横浜の病院に入院した時、病状が重く、薬のみによる社会復帰が困難になっていたとしたら、当時はまだ弁の形成手術は日本にはなかったのですから、間違いなく人工弁になっていたこと。
二、 主治医の奥様の手紙の誤解によって幸いにも新宿の病院にかわったこと。
三、 東京には心臓専門の病院がいくつもあるのに、娘が私に相談もなく電話帳で新宿の病院を探し診察の予約をとったこと。
四、 B医師の人違いがなければ問違いなく人工弁になっており、C医師による形成手術はぜったいに行なわれなかったこと。
五、 手術の前夜、家に半年以上も前に注文して、私もまったく忘れていた長靴が届けられ、私を励ましてくれたこと。

 以上、五つの奇跡のうちのひとつでも欠けていたとしたら、私は間違いなく第一級の心身障害者となっていたか、あるいは私の生命さえなかったのです。  私にはどうしてもこれをたんなる偶然として片づけるわけにはいかないのです。  このように、今回の私の手術は、たまたま私が気がついた五つの不思議によって、大成功となったのですが、私達の長い人生のうちにはまったく本人の知らない幾百幾千の不思議が重なって、今の私達がこの世に生かされているのだと気がつきました。ただただ仏様に感謝する外ありません。  そして仏様によって生かされている事を知った今の私には、残された余生を、仏様から与えられた与生として、これからの人生を「人事を尽して天命をまつ」というより「天命をまって人事を尽す」ようにしたいと思いました。