5. 霊 魂
"死んでしまった人に対して
私達は何の力もないが、然し
死んだ人の真心が生きている我々に
働きかける力は、絶大なものがある" 武者小路実篤
平成四年五月二十九日午前九時三十分、むずかしい心臓手術のために頭の上にいくつものまぶしいライトがついている手術台に
寝かされ、麻酔をかけられて意識がなくなってから、無事手術が成功して集中治療室を出るまでの間、時として朦朧としてくる頭の中に
父や母の顔が幾度となく浮んできました。
手術の前にはお墓参りに行っても、また家の仏壇の前で手を合わせても、なかなか、はっきりと目の前に現れてくれなかった父や母の、
それも生前には決して見たこともなかった表情の顔が、ひじょうに鮮明に私の思いの中に浮んできたのです。
そして、さらに不思議なことに、その時の顔は手術が無事に終って、元気になった今でも、あざやかに私の脳裏に焼きついていて、
すぐに思い出すことができるのです。
生前、親孝行らしいことをなにひとつせずに、本当はものすごく尊敬していたのに、顔を合させると醒
めた目でしか見ることのできな
かった父は、それが自慢の長い眉毛を「へ」の字に下げて泣きべそをかきながら、「修一、大丈夫か元気を出せ」と大声で何回も何回も
叫んでくれました。
また、私を生んで僅か半年、二十三歳の若さで他界した生みの母も、その面影はといえば今から六十二年前、葬儀の折に飾ったという
写真しか見たことがなかったのに、まるで観音様のようなやさしい顔で、心配そうにじっと私を見つめていてくれました。
また、戦中戦後の苦しい時代に、肺病の父の看病をしながら、実の子でも決してこうはできないと思うほど、私を愛し育ててくれた今は
亡き懐しい母も、それが癖の右肩を少し落して「大丈夫よ、お前は強い男だから、きっとよくなりますよ」と何度も何度もはげましてくれ
ました。
そして、さらに感激したことは、私が本当につれなく邪険
に振舞って、どのような罰があたってもぜったいに文句はいえないと思って
いた祖母までも、目をしょぼつかせ、脂がなくなり、がさがさに皺のよった手で孫の私を、「おうおう、よしよし、たのむから元気に
なっておくれ」と、その時には物心ついたばかりの子どもにかえっている私の頭を、やさしくなでてくれたではありませんか。
「親孝行したい時には親はなし」
いつもいつも心の中でこれらの人達に詫びていた私も、「あゝ、これで本当に父も母もまた祖母までも私のことを許していてくれて
いたのだ」と、なんともいえない安らぎと、安心感にひたることができました。
手術後の苦しみに堪えながら、その痛みと戦っている間中、父母や祖母の霊が、かわるがわる私を励ましていてくれたのだと思います。
辞書によると、霊とは「肉体のほかに別に精神的実体として存すると考えられるもの、人間の身体にあって、その精神、生命を支配する
と考えられている人格的、非肉体的な存在」とあります。
また英語では霊のことを「メモリー」というのだと聞きました。人の心の中のどこかに宿っていた記憶が、ある日ある時「フッ」と
甦ってくる、それが霊だというのでしょう。
そして今まで、私は、私の心のなかに宿っている記憶を甦えらせてくれる力が霊なのだと解釈しておりました。
しかし今は違います。
なぜならば、集中治療室のなかで、私の頭の中に鮮明に現れてくれた四人の顔は、私の記憶の中にはまったくなかった顔ばかりだった
からです。
そして、これらの人達の霊が何度か遠のきそうになった私の意識をひきもどしてくれたのです。
今こそ、「死んだ人の真心が生きているわれわれに働きかける力は、絶大なものがあると思う」といった武者小路実篤の言葉に心から
深く深くうなずくと同時に、私達は死んでしまった人達に対して何の力もないかも知れないけれど、しかしこの御恩を忘れずに私の周囲
の人達に何等かの形でお返ししなければと、しみじみと思っております。
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