3. 空即是色

 十数年来の心臓病になやまされた末、あえて成功率の低い形成手術をしていただく決心をして、身の程知らず にも、この二度とない機会にひょっとしたら、「般若心経」の心にふれることができるかもしれないという期待も あって、形成手術をすると決めてから入院するまでの一か月、私は私なりに、改めて「般若心経」に真剣に取組ま せていただき、私のような者でもどうやら危険な手術に対する心の準備ができたかに思われました。
 「これで良し」と、入院を控えて私は非常に楽しい気持になり、手術の日の来るのを待ち遠しくさえ思えるよう になりました。
 ところが、だんだんと手術の日が迫り、手術の八日前に入院して、夜は真白いベッドにただ一人、昼は手術に そなえていろいろと検査をされたり、また、自分の血液だけで手術をする関係で、数日にわたって何回も自分の血 を大量に採血されて気分が悪くなったりしてくると、だんだんと死の影が重くのしかかってきて、ひょっとすると 手術がうまくいかず、「色即是空」よろしくそのままあの世行きになってしまうのではないかと真剣に考えるよう になりました。
 愚かにも、いったんは悟りを開いたと思った私も、そうなると今度は何もかも悪い方にばかり考えがいって、 テレビを見ていても、死とか葬式のシーンがやたらと目について、悟りを開くということがいかにむずかしい ことか、われわれ凡人にはとうてい無理な話だったのだと、はじめて気がつきました。
 結局のところ、私の悟りは、生きかえる可能性が半分はあるという期待のうえに立ってのものでしかなかったのです。
 癌や不治の病で闘病生活を送っている病人ならば、半分は諦めともつかない悟りを開くことができるかもしれま せんが、私の場合は自分からわざわざお願いして、危険覚悟で、あえてむずかしい手術をしていただくのですから、 今からでも成功率の高い人工弁にして下さいといえば、私のこの悩みは即座に解消するわけで、「この世の中のもの はすべて永遠に存在するものはないのだから」等と悟りきって、あえて成功率の低い手術を受けることのできる人が、100人のうち に果して何人いるだろうか、そんな馬鹿は私ぐらいのものではないだろうか、私の決断は間違っているのかもしれない、とずいぶん悩み ました。しかし、結局のところ、いまさらみっともないことはいえないと見栄をはって、ずるずると日が過ぎてしまい、ついに手術の 二、三日前には、私にも武士の血が流れているのだからと、武士道の精神よろしく、「今となっては逃避が不可能なことと納得し、 居ずまいを正し、坐り直して背骨をまっすぐに伸ばし、正面を見すえ、『空即是色』とよみがえることのみを信じよう」と決心しました。
 ところが不思議なことに、そのような悲壮な決心をして、いざ「死」というものをもう一度本気で考えてみようとしても、正直な話、 私にはどうしても「死」に対する漠然とした恐怖はあっても、はっきりとした実感が湧いてこないのです。
 しかし、考えてみればそれもそのはずで、当の本人が死んだ経験がないのだから実感が湧かないのも道理で、「何とかなる、 何とかなる」と一所懸命に心の中で叫んでいる自分がそこにありました。
 そしてとうとう手術の前日には、一種の「ひらきなおり」も加わって、かつて飛越能力はあっても経験不足な若馬で大障碍競技に出場 した時のように、目をつぶって自分の魂を障碍の向こうに放り出すような気持で、とにかく何があってもみっともないことだけはすまいと 心に誓いました。
 そして万一の場合を考えて、後々のことを便箋数枚にしたため、妻と二人の娘に渡し、手術室に入りました。
 ありがたいことに八時間半にわたる大手術も大成功で、以前より何倍も元気になり、何をしても息切れ一つしなくなった今、 「空即是色」の意味の深さをしみじみと味わっております。
 「永久に存続することのできる実体など決して存在しないのだから、それだからこそ今この瞬間を大切にしたい。」
 生きていることの素晴しさを今ほど強烈に感じたことはありません。
 おかげさまで二度と戻ることができないかも知れないと思っていた信州の高原での療養中、改めて目にする山々や唐松の自然の美しさに 感動を覚え、現実に生きていることの(あかし) として大自然の中で目にする一切に仏の命が宿ると思えば、名もない野辺に咲く一輸の花にさえ、 その美しさに心を奪われ、ただただ「ありがたし」と幸福感にひたることができました。
 しかしその反面、手術が成功した今、改めて考えてみれば、手術の前にあんなにも悩み苦しんだことがまったくの骨折り損で、手術の 結果が前もってわかってさえいたら、何も一人であんなにも苦しむ必要はなかったのにと、もったいないことを考えました。しかし、 仏教でいう真の「苦しみ」が、どのようにしても思いのままにならないことをいうのなら、今回の私の苦しみなどは、最初から苦しみでも なんでもなかったのかも知れません。
そしてさらに、よくよく考えてみれば「死」に直面したと思った私なりの苦しみがあったればこそ、今のこの幸福感、満足感を味わうこと ができたのだと思えば、修業の足りない私の苦しみもまた、私にとっては非常に価値のある苦しみだったといえなくもありません。
 "悟りということは、平気で死ねることかと思ったら、平気で生きていけるということなのだ"と言った正岡子規の言葉が、ずしりと胸 にこたえます。