2. 第二の人生(二)

 還暦を過ぎた頃から、毎年きまって同じような文章の葉書を何通も懐しい友達から受取るようになりました。

 『拝啓   ○○の候いかがお過しでいらっしゃいますかさて、私儀
○月○日付を以て、○○株式会社を退職し、○○株式会社の監査役として第二の人生を送る事となりました、云々』
 と。
 しかし私にいわせれば、何も第二の人生は仕事にだけ関係があるのではなく、若い二人が結婚して新婚生活に入り『新しい人生の門出』 をするのも第二の人生であり、幼ない子どもが生まれて初めて親元を離れて小学校に通い出すのも、考えようによっては立派に第二の人生 の門出ではないかと思います。
 このように考えると、何も一人の人間の一生には第一も第二もあるわけがなく、() いて第一、第二と区別するならば、私はむしろ第一の 人生は人間が生きていくために動物的本能のおもむくままに生活し、結婚してからは夫婦して一所懸命に働き子どもを育てる人生であり、 第二の人生は第一の人生と併行して、人間として真に人間らしく生きるための修業をつんで、『迷いの世界、煩悩の世界、相対の世界』 から『悟りの世界、涅槃の世界、絶対の世界』に到達できるように、日々努力する人生ではないかと思います。そしてこの第一の人生を 楽しく幸福に過すために必要不可欠のものとして、第二の人生の生き方がより重要になってくるのだと思います。
 私の場合、幸いなことに、むずかしい心臓の手術によって一度死んだ後、仏様によってまったく新しい命をいただくことができ、 せっかくいただいたこの有難い人生を、いつ死んでも『ああ、これでよかった』と思えるような悔いのない毎日を過したいと考えました。
 十数年来の心臓弁膜症で、手術をする一か月程前には血液の逆流の程度が最悪となり、一刻も早い手術の必要に迫られ、担当の医師から は『四度』という重症の弁膜症では最近アメリカで成功し、つい先頃日本でもできるようになった形成手術もむずかしく、比較的安全な 人工弁の交換手術をするようにとすすめられました。
 しかしそうなると一生涯、薬とのおつき合いや一か月毎の病院通いはまだ我慢できるとしても、薬の副作用で、けがをすれば血が止まり にくくなったり、十指にあまる合併症の恐怖がつねにつきまとい、これから先きの人生を『そろりそろり』と肩をすぼめて、家族の者達の 厄介(やっかい) 者として生きていかねばならず、そんなつまらない人生を送るより、いっそのこと、成功率も低く、また手術の歴史も浅い(約五年) 形成手術によって自分の弁を何とか修理していただき、薬にたよらず本来の健康な体をとりもどして、自由に思いっきり生きて、生きる ということの本当の意味を考えてみたいと、自分自身にいい聞かせ、医師を説得し、同時に家族の同意を得て形成手術にふみ切りました。
 そしてこのまたとない機会に、あるいは『色即是空』(形として存在しているすべてのもの、即ち色には永遠に継続するもの、実体は 決してないということ)と覚悟を定め、『罣礙(けいげ) 無きが故に恐怖(ぐふ) 有ることなし』(平常心をもてば恐怖心は決しておこらない)と悟ることが できそこから始まるまったく新しい人生を『空即是色』、永遠に継続すべき実体等決して存在しないのだから、今この瞬間を『有難し』 と受けとめて、真の人生を味わうことができるかもしれない、と考えました。
 ところがだんだんと手術の日が近づくにつれて、その自信はゆらぎ、得体(えたい) の知れない恐怖におそわれるようになりました。
 しかし幸いにも手術の結果は大成功で、今こうしてまったく新しい、しかも以前より何倍も性能の良い心臓をいただき、生かされて 生かせていただいていることを痛感し、手術後信州の高原の大自然の中で療養をしながら、目にすることのできる一切の物に仏の命の 宿っているのを知り、移り行く自然に感動を覚え、野に咲く花の美しさに我を忘れることのできる幸福感をしみじみと味あわせていただきました。
 永遠に継続するものなどぜったいにあり得ないからこそ(色即是空)、今のこの瞬間をありが たしと受けとめて大切にしよう(空即是色)。
 『色即是空』を実感として理解できなかった私も、新しい人生をいただいた今、『空即是色』はなんとなく理解できたように思います。
 それでも、色と空とは結局、同じことなのだ、(色不異空・空不異色)といわれてみれば、『色即是空』もまた『空即是色』が理解できた程度にはわかったのかも知れません。
 いずれにしても『般若心経』は理屈の世界ではなく、体でぶつかり、心の深いところで、うなずく世界だと思います。
 これから始まる私の第二の人生、やりたいことが山程あります。
 時間をもっとも有効に使う秘訣は、拝借している心臓を大切にして少しでも健康で長生きすることです。
 これから先、何年生かせていただくか知りませんが、自分なりに健康に注意して『余生』ではない、仏様から与えられた『与生』を自分なりに納得しつつ一日一日を送りたいと考えております。