7. すばらしい子ども達

 美しい日本アルプスの山なみに囲まれた長野県伊那市に、始業ベルも、時間割も、そして通信簿もないという、子ども達にとって、まさに天国のような総合教育の実験校、伊那市立伊那小学校があります。
 この小学校では、クラスごとに目標を定めて、その目標を達成する過程の中から、子ども達自身に何かを学びとらせようという教育が行なわれています。
 今から六年前、1987年の夏、その小学校の春日先生は二年順組の担任として、三十八人の子ども達と一緒に一頭のポニーを飼うことにしました。
 子ども達はもちろん、春日先生もこれまで馬に一度もさわったことさえなかったのですが、ただその子ども達が午年(うまどし) だということだけで、正月も夏休みも返上して、犬を飼うのとはわけが違う、子ども達からみれば大きな大きなポニーを 飼おうと決心したのです。
 子ども達の熱意に(ほだ) された先生は、人() てに静岡県の富士牧場公園で、ポニーを飼っているということを聞いて、さっそく牧場主の藤本さんに会いに行きました。
 そして、まったく馬を飼った経験のない小学校二年生の子ども達だけで、ポニーを飼うのは不可能だといっていた藤本さんを口説き落して、ついにいろいろな条件が揃えば一頭あげても 良いという約束をとりつけました。
 さて、その條件の第一が馬小屋づくりです。ポニーを飼うことができると聞かされた子ども達は、ただただポニーを飼いたい一心から、 別れる時のことなど考える余裕もなく、まだ十歳にもならない三十八人の可愛い手が、二分の一の大きな設計図をひいて、立派な馬小屋を つくりあげ、ついに北海道産の十六歳の雌のポニー(クリッカー号)を譲ってもらうことに成功したのです。
 もちろん、子ども達は知り得る限りの馬に関する資料を集め、ポニーの飼い方、餌の種類やあたえ方、手入の仕方等を一所懸命に勉強しました。
 それから三年七か月の間、子ども達が中学校に入り、一般の中学生として勉強をしなければならず、馬の世話が出来なくなる日まで、皆で力を合せてけがや親たちの反対等のいろいろな苦難を乗りこえて馬の世話をし、クリッカーとともに暮らすことになりました。  その間、この年おいた雌のポニーは立派な仔馬を生み、(人問に例えれば七十歳出産)、骨格筋損傷や心臓病と闘いながら子ども達の愛に こたえて、生きているということのすばらしさや、生命の神秘と尊さを一人一人の子ども達に教え、子ども達もまたクリッカーから抱え きれないほどの得がたい経験を積むことができました。その心豊かな愛にあふれる素晴しい三十八人の三年七か月にわたるクリッカーとの 記録は、『ぼくらの仲間クリッカー』という本にもなっておりますが、ここではその中の一部をとりあげて、二十一世紀にむけての教育の あり方について考えてみたいと思います。
 ポニーを飼ってしばらくたったある日、一人の子どものつぶやいた「クリッカーの故郷に行ってみたい」といった一言は、やがて子ども 達全員の夢となって大きくふくらみ、それを実現させるための皆の努力と熱意は、ポニーを飼うことに成功したと同じように、ついに 六年生の最後の夏休みに三十八人全員の北海道牧場めぐりとして実現しました。
 サラブレッドの牧場での四日間、子ども達は大人達にまじって草刈や飼育等の厩作業を立派にこなし、またとない思い出をつくりました が、その時の感想を子ども達は次のように書いています。


   "牧場体験"              M.K
 朝、牧場の方が迎えにきてくれて、牧場へ行きました。
 増本さんの所は海の近くでした。
 馬はびっくりするほどではないけれど沢山いました。仕事をやりました。
 小屋の中のわらをきれいな所と汚れている所をわけました。使いなれない道具を使ってやったので大変な仕事がもっと大変になりました。
 牧場の方たちは、私達が手でやっていると、「きたないからやめな!」と言いました。
 私は馬を飼っている人は平気でボロ(馬糞)とかを手で持ったりすると思っていたので予想外でした………。

 また、別の男の子はもっとも楽しみにしていたクリッカーの生まれた牧場に行った時のことを次のように書きました。


   ”北海道一日目"        I.Y
 いよいよ楽しみにしていたクリッカーの生まれた牧場『○○牧場』に行きました。
 「じゃま馬だったので、藤本氏へさし上げました」。こう聞いた時、一瞬ムカッとしました。でもよく考えてみたら、ポニーなんてじゃまだよなと思いました。
 誕生日はやはりわからなかったけれど、クリッカーの生まれた厩舎が分かっただけでもよかったです……。
 また、同じようにこのことを、U.S君は「ポニーは、じゃまみたいなものだ」。そんなようなことを言いました。私は、ポニーがじゃまものあつかいされるのは、 かわいそうな気がしました。藤本さんも知らなかったということでした。でも○○さんがポニーをかっていなかったら今のクリッカーは、 いなかったと思います。

 子ども達が自分の子どものようにかわいがっているポニーに心無い大人達は、何とひどいことを言うのでしょう。
 しかしこのことは別として、最後に子ども達は、牧場の人達の生活が知れてとっても良かった、勉強になった点もいくつかあったので とても良い経験になった、このことを参考にして、これからはもっとよくクリッカーの世話をしたい、と書いてます。
 事実、馬を飼うということは時間的にも労働的にも大変なことなのですが、三年七か月の問、子ども達は仔馬が生まれて二頭の餌代を 稼ぐため、自分達で午年のカレンダーを作って百万円も儲けたり(一部は北海道旅行の費用)、親子の馬のために二階建ての馬小屋を新しく 建てる材料費を稼ぐために校庭や道路の銀杏の実を拾って袋につめて、町中の家を一軒一軒まわって買ってもらったりもしました。
 このように子ども達は楽しくのびのびと学校生活を送り、その間多くのことをクリッカーとの体験の中から学ぶことができ、それぞれに 大きく成長していったのですが、やがて子ども達は中学校に進むことになり、クリッカーと別れなければならない日が近付いてきました。
 今は老いて満足に歩くこともできない病気のクリッカーをおいてはいけない、かといって飼う新しい場所もみつからない、まして経験の ない下級生にまかせることもできないと知った時、一人の女の子はこんなことを言いました。


 残酷かもしれないけれど……私は、本当は、クリッカーが私達が卒業する前に死んでくれたらいいのにと思うんです。
 全員で、最後の最後まで一所懸命に世話をしてあげて、それでみんなに囲まれて、息を引き取ることが出来たら、私達にとっても、クリッカーにとっても、いちばん幸せなことだと思うんです。

 女の子の頬は、涙でぐしゃぐしゃになっていたといいます。  十二歳のおさない子どもの心の中に、自分達以上にこの馬のためを思って世話のできる人はこの世の中にはいないという思いが いわせた、ものすごい言葉です。
 この子ども達はクリッカーと別れなければならないと気がついた時、人間として決してさけることのできない、さびしさ、せつなさ、 はかなさ、むなしさを身をもって味わっていたのです。
 この世の中にはどんなに思っても、どうしようもないことがあるのです。
 子ども達もこの現実をふまえて、いつの日にかきっと「般若心経」の「空」の心が本当にわかることだと思います。
 病気になったり、死なれたり、……生きているといやでもそういう体験を重ねることになりますが、その一つ一つを大切にして理屈では なく体験でわかるところに「空」をつかむ鍵があるように思います。
 三十八人の幼い純粋な心は、考えに考えた末に、クリッカーが昔暮していた富士牧場の藤本さんにまた飼っていただくことにしました。
 そして全員揃ってめでたく中学校に進み、新しい人生のスタートを切った四十日後、クリッカーは自分の役目をすべて果したかの如く老衰のためにこの世を去りました。
 物質優先、経済優先の社会に育った今の子ども達は、物の豊かさの中に埋もれて何不自由なく育っていきます。しかし自から汗を流すこともなく、 経済的に恵まれた家庭環境の中で、受験、進学のためだけの管理教育によって、やる気と自信と独創性を失ない、ひ弱になっていることも 事実です。
 教育とは読んで字の如く、教え育てることです。
 二十世紀の学校教育は、体験重視、個の生かし方が大切だということを、三十八人の子ども達と春日先生から教えられたように思います。