6. 土 産

 いつの頃からか(さだ) かではありませんが、日本にある昔の武将や明治の元勲が馬に乗っている銅像を見たり、また、時折訪れるヨーロッパ各国の馬の銅像を見るにつけ、いつかきっと自分も、生きている自然な美しい馬の姿をブロンズにしてみようという夢を持つようになりました。
 幸か不幸か、六十を過ぎ、健康上の理由から仕事もひかえ、ある程度自由な時間ができたのを機に、六十の手習い よろしく、自分なりに納得のいく馬の像を造ろうと大決心をして、必要な道具を揃え、原料の粘土を買いこんで、 さっそく馬像の作成にとりかかりました。
 まったくのしろうとが何の基礎知識もなしに馬の像を造ろうと決心したのには、じつは私なりの幾つかの理由があったからで、 その第一は、現在見られる多くの馬の銅像や馬の置き物が、そのものが持つ芸術的価値とはまったく関係なく、馬学的にみてなんとなく 不自然な動きのものがあって、それを造る技巧と表現力がありさえすれば、私のような素人でもあるいは馬の本当の美しさを表わすことが できるかも知れない。そして馬に関係して五十年、毎日のように馬にさわり馬の骨格はもちろん、どの部分にどのような筋肉がつくか等、 馬の体について良く知っている人なら、ひょっとして動きのある馬の美しい姿をブロンズの上に再現できるかも知れない。自然とのまった き調和の姿が美であるならば、大自然の中にとけこんでいくような、あの馬のなにものにも束縛されない自由な本当の美しい姿を、なんと しても像にしてみたいと思ったからです。
 このようにして始めた私の馬像づくりは、何度となく失敗を繰りかえしながら、馬乗り仲間にはなんとか認めてもらえるような粘土像を 何頭か仕上げることができました。
 ところが、その馬像を毎日自分の部屋において、いろいろな角度から光をあてて眺めたうえで、「よし、これなら」と自分なりに納得 して、「明日粘土像を持って行きます」と石膏取り専門の業者に電話をして、さて次の日にそれを違った條件のもとで眺めてみると、 またまた気に入らない個所が目にとまり、どうしても手直しがしたくなって、ブロンズにするのを中止するということの繰りかえしで、 結局、何頭もの馬がいまだに粘土のまま私の手直しを待ちつつ、何か月も我が家に繋留されるはめとなり、私には馬像を創る素質が なかったのかも知れない等と思うようになりました。
 ひるがえって、この現象を私達の日常生活にあてはめて考えてみたらどうなるだろうか、私は気に入らない馬像を直しながら「フッ」と、そんなことを考えてみました。
 毎日毎日の積み重ねの人生は、その一日が仮りに悪い出来であったとしても絶対に修正することはできません。
 悪い出来なら悪い出来のまま、世間の評価を受けて過ぎてゆきます、出来が悪い一日だからといって、倉庫にしまって人目につかないようにするわけにはいかないのです。
 となると私も出来の悪い粘土の馬像創りなど即刻中止して、武者小路実篤の詩のように、「一番深いところからくる純粋な 喜びを感じつつ、毎日の仕事を悠々とやっていきたい、まず自分のすることをして、今日も無事に有益に一日を過ごせたことを、心ひそか に喜びたいと思う」というのが、貴重な一日の本当の理想の過し方のように思えて一日も早く粘土づくり以外に「純粋な喜びを感じられる ような仕事」を見付けなければという焦りさえ覚えるようになりました。
 次に私が馬の像を造りたいと思った理由は、馬に明け馬に暮れる毎日の私から馬をとったら、結局何一つ残るものがないと自他ともに 許している人間が、唯一つ此の世に生きたという証しを何か残してみたい。死後、御戒名をいただいて墓石に「○○院○○居士」と書いて いただいたところで、曾孫(ひまご) の代にでもなれば、その人がどんな人だったのかまったくわからなくなってしまうではないか。西村修一という、 馬しか知らないで一生を送った馬鹿な、しかし見方によっては世界一幸福な男が、この世にいたという証しを、馬の像を残すことによって 子ども達に思い出してもらおうと思ったからです。
 ところが、つい先頃、高見順の「死の渕より」という詩を読んでいて、子ども達に残してやらねばならない本当のお土産は、何かもっと 別の物でなければならないということに気がつきました。

    帰れるから旅は楽しいのであります
    旅の楽しさを楽しめるのも
    我が家にいつか戻れるからです

 胃癌のために五十九歳の若さで死んだ高見順はこう言っています。  旅は帰る家があって、懐しい人達が温かく迎えてくれるから楽しいのです。だから懐しい人達にその地方地方の珍しいお土産を買って 帰るのでしょう。
 人生の旅は自然にかえる旅、いつかは土に戻る旅、だから楽しくなくてはならないのだというのです。
 土にかえる旅が楽しいと感じるか、または悲しいと思うかは別として、私達がこの世に生まれ人生という旅に出発した以上、できるだけ 多くのお土産を子ども達に買ってやりたい、残してやりたいと思うのが人情というものです。それならば、自然にかえる旅の、子ども達に 買ってやれる本当のお土産とはいったいどんな物なのだろう、私の手造りの馬の像もあるいはその一つになるかも知れません。しかし そんな物ではたしていいのだろうか、たった一度しかない私の人生の中で、愛する娘や孫達に贈る本当のお土産はもっと別のところに あるのではないだろうか、私は考えました。
 例えば、私という男が一人の人間としてこの世に生きた生き方だって立派に子ども達に贈るお土産となるかも知れない、と。
 一期一会の精神でその日その日を一所懸命に生きることによって、あの人の子どもなら決して悪い人間ではないという世評を残してやる こと。一期一会の心を身につけて常に人の気持になって考えることのできる、やさしい心を持った人間に育てること。
 そして人間としての本当の生き方がどういうものかということを、つねに真剣に考えながら一日一日が送れるような環境をつくってやる こと等々。
 これこそが親から子ども達にもたせてやれる本当のお土産ではないだろうか。
 つまるところ、私が馬像を造りたいと思った動機は二つともこのような理由で無残にも崩れ去ってしまったのです。
 なんとなく目標を失った私は、そこでまたまたこんな都合の良いことを考えつきました。
 娘達に送るお土産は、彫塑の余暇に考えることとして、大宇宙からしてみれば、自分一個の存在なんて、まったくとるにたりない存在 なのだから、好きなことをした方が気も楽だし健康にも良いに違いないと。
 今日もこれから、なんとか時間をつくって、なかなか思うようにならない粘土と格闘することにいたします。
 ひょっとして、この粘土遊びだって、いつの日にか「純粋な喜びを感じとれるような仕事」になるかも知れないという淡い希望をいだきながら。