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5. 鏡
乗馬クラブの馬場や舞踊劇(バレー)の練習場には、たいてい大きな鏡がついています。とくに馬の動きや、
乗馬姿勢の美しさを競う馬場馬術では、人馬の姿や動きを、鏡を見ながら自分自身でたしかめるために、鏡が必要
不可欠な設備だと思われております。しかし私はかなり以前から「鏡は決して真実の姿を映してはくれない」
と思っておりました。
なぜならば、鏡はご承知の如く、左右が逆に映るばかりでなく、人は鏡に自分の姿を映す瞬間に、少しでも良く
映したいと願う本能から、鏡に映らない裏側で無理な姿勢をとってでも良い姿を映そうとするため、全体として
バランスの崩れた惨めな姿を第三者や審査員の前に晒
すことになってしまうからです。
鏡の方を向くだけでも人馬のバランスは崩れます。鏡に映らない裏側の姿勢がきちんと保たれていて初めて、
鏡に映った姿もバランスのとれた美しいものになるのです。
趣味で始めた彫塑にしても、ときとして、どこから見ても、おかしなところが見当らないのに、なんとなく物足り
なさを感ずる時がありますが、これなども、よくよく観察してみると、その像の裏側に欠陥があって、その個所に
手を加えると、たちまち心の中にストンと入り込むようなことがあります。
また鏡のもう一つの欠点としては、鏡に映し出された姿が無理をした不自然な姿であるにもかかわらず、自分なり
に「まあまあ」だと思いこんで、仮りに他人から欠点を注意されても、それ以上自分の姿勢を改めようという努力を
怠ってしまうことです。
今から十年程前、私の先輩の夫人が落馬して、顔面神経の具合なのか、人と話をしている時に顔が痙攣するように
なりました。
あるとき、その夫人は私に「ねえ西村さん、主人はおまえの顔は時折、ひきつったようになると言うけれど、
私の顔は、ひきつったりなんかしないわよね。鏡に映る私の顔はまったく以前と変りないもの」と言われたことが
ありました。夫人は鏡に自分の顔を映す時、顔がひきつらないように知らず知らずのうちに身がまえていたのです。
それと同じように、馬術の練習で、事前に用意されたその時だけの無理をした姿を鏡に映してみたところで、実戦では何の役にも立ちません。
むしろ人にたのんで、あらゆる角度からビデオで撮ってもらい、自分の本当の姿を、動きの中で、第三者的に眺め、
審査員の目で確かめた方がより効果的です。
昔から「馬乗りは尻の下に眼をつけろ」といわれますが、これは今自分の乗っている馬の飛節
の折れ具合、
後駆
の踏みこみの良し悪しを、心の中でというか自分の尻で感じとらなければいけないということで、決して
鏡の助け等借りてはいけないという先人の戒めの言葉でもあるのです。
よくテレビや映画の女優が、一〜二年もするとデビュー当時より顔も姿も見違えるように美しくなる人が
いますが、これなども映画やテレビを通じてあらゆる角度から客観的に自分の姿を見ることができるからだと
思います。
若い女の人達がよく鏡の前で何時間もかけてお化粧をしている姿を見かけますが、彼女達はあくまでも鏡の中の
わざとつくった顔に化粧をほどこしているにすぎません。
先の先輩の夫人のように、他人が見ている自分の顔は決して自分が鏡の前で化粧をして自信
を持って人前に晒している顔ではないのです。
バーの便所で酔って、まったく無防備な自分の顔が、突然鏡の前に映し出されて、ガク然とした経験のある人は、
なにも私だけではないと思います。
いついかなる場合でも、自分の顔に責任を持つということは並たいていのことではありません。
よく禅寺の玄関に「脚下照顧」という額がかかっておりますが、これは自分の履物をきちんと揃えて脱ぎなさい
という意味の外に、自分の足元を、もっとよく照して見なければいけないということで、いいかえると自分自身の心
をよくよく見定めなさいということでもあるのです。
自分自身の心を正しく見定めることができて、初めて内面からにじみ出る何物かによって第三者が見ても魅力の
ある立派な顔になるのだと思います。
本当の自分自身に会うことができ、本当の自分自身に目覚めることができたら、最高に素晴しいことです。
ひょっとして仏教思想の一番の宿題もまた、鏡の中の自分ではない本当の自分にめぐり合うということなのかも知れません。
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