4. 同行二人

   『為人謀而不忠乎
    興朋友交而不信乎
    伝不習乎』

 人の為に謀って忠でなかったのではなかろうか。
 友人と交って真でなかったのではなかろうか。
 習いもしなかつたことを伝えていたのではなかろうか。あるいは間違ったことを伝えていたのではなかろうか。
 これは論語に出てくる言葉ですが、長い間馬に乗り、人に尋ねられれは、馬術についての技術的な指導もしてきた人間として、 この最後の「伝不習乎」という言葉がいつも心のどこかにひっかかっておりました。
 「今、自分が教えていることは、ひょっとして間違っていはしないだろうか、自分だけの考えで無責任な教え方 になってはいないだろうか」と。
 何故ならば教えるということは、踊りやピアノのように教わる人だけが習得すれば目的を達成するものもあれば、 馬術のようにその対象が騎手であると同時に、その人の乗っている馬とも密接なかかわり合いがあって、馬と騎手と を同時に教えなければ意味がなく、また馬だけについて見ても、その馬の性質、その日の健康状態、あるいは調教 の度合いや馬の骨格等迄考慮に入れたうえで、その禦法(ぎょほう) を騎手に教えなければ本当に教えたことにはならないからです。
 馬術の世界では、足も長く運動神経もあり、雰囲気もよく、きっと上手になるだろうと期待された人が、最初に 間違ったことを教えられたばっかりに、悪癖が身について矯正(きょうせい) 不可能となり、その結果、馬を思うように動かす ことができず、自然と乗馬から足を洗ってしまう人が非常に多く、また大学の馬術部に四年間も在籍していたのに、 卒業してから乗馬を楽しむ人が1パーセントもいないのは、学校で正しい指導者につかなかったために、馬術の 真の面白さを在学中に味わうことができなかった結果であり、かといって大学の馬術部の学生に馬の管理迄 させながら、学業の合間を縫って正しい馬術を教えるということは、正しい運動のできる馬場馬 術馬の調教すら満足にできない私にはとうてい不可能にちかく、馬術の盛んなヨーロッパのように、学校の馬術部 ではなく、個人専用の馬によって最初から人馬のペアを組ませ、専属のトレーナーが人馬を同時に教えないかぎり 正しい馬術を身につけさせることは不可能だと痛感して以来、私は学生達から馬術について聞かれても馬場馬術の 審査員としての講評はしても、決して技術的なアドバイスはしないようになりました。
 ところが、つい二か月程前、偶然にも幼稚園から大学迄一緒であった友人に、約二十年ぶりにバッタリ出会い、 懐かしさから近くの寿し屋の暖簾をくぐりお互いの近況話等に花を咲かせたことがありました。
 彼は大学卒業後、ある有名な電機メーカーに入り、順調に出世して重役にまでなったのですが、考えるところが あって、ある日突然会社をやめて、頭に菅笠を着け、胸に頭陀袋(ずだぶくろ) を下げ、金剛杖(こんごうづえ) をつき、徒歩で四十二日間 をかけて、昔の道を調べながら西国巡礼の旅に出たというのです。
 現在はある短期大学で時代の最先端をゆくコンピューター関係の講師をしているその友人が、なぜ最大手の会社 の役員の職を捨ててまで巡礼の旅に出たのか、その理由等を興味深く聞いていた、その話のなかで、たまたま巡礼 がつける菅笠に書かれている「同行二人」の話になりました。
 「同行二人」とはいうまでもなく四国遍路なら弘法大師、巡礼なら観音様との二人旅というこ とですが、ここでいう「同行」とは弘法大師や観音様が私達を教え導いて下さるというのではなく、私達と一緒に 肩を並べて歩いて下さるという意味だったのに気がつきました。
 すなわち、一対一で向かいあって、相手を変えよう、自分の方に引き寄せようというのではなく、一緒に一つの ことについて肩を並べて考えながら歩きましょうということなのです。
 友人の話を聞きながら、私も馬術部の学生を指導してやろうという考え方をすてて「同行二人」の精神で、 馬を媒体として馬術部の学生に接すれば、自分が本当に理解してもいないことを無責任に教えるようなこともなく、 学生と一緒に肩を並べて歩く楽しさを味わうことができるかも知れないと考えました。そしてついでに夫婦の間 でも、常に「同行二人」の精神で暮すようにすれば、きっと上手(うま) く行くのに等と考えながらたいへんに美味しい酒 をいただいて、またの再会を約して楽しく帰途につきました。
 うまくすると彼の口から再度原稿の種が得られることを期待しつつ。