3. 六波羅蜜

 1990年の夏、スウエーデンの馬術世界選手権を見ての帰り、ドイツで試乗した十数頭の馬のなかに、私の脚や掌に 忠実に反応してくれる非常に乗りやすい馬がおりました。約半世紀におよぶ私の馬乗り生活の中で、自分が若駒の時 から手塩にかけて調教したどの馬よりも、どうどうとしていて、リズムも良く、ほぼ完壁な演技を行ない、その馬を 調教したヨハン.ヒンネマン氏(馬場馬術の選手として、また馬場馬術馬の調教師として世界的に有名)が乗れば 世界選手権に出場しても決してひけは取らないと思われる程の名馬にめぐり会って、つい数日前、世界の名馬、 名騎手の演技をまのあたりにしてきたことにも刺激され、私はまるで子どものよ うに無性(むしょう) にその馬が欲しくなってしまいました。
 そこで、さっそく地元ウェストファーレンの馬事協会の力をかりてヒンネマン氏を説得し、ハノーバー産のその 名馬をなんとか譲り受けることに成功しました。
 一足先に帰国した私は、その馬が日本に着く日を一日千秋の思いで待ったことは皆様のご想像におまかせします。
 しかし、それから約一か月半後、成田の検疫所から出てくるのを待ちかねて、胸をおどらせながらその馬に跨った 瞬間の、私の驚きと戸惑いは今でも忘れることはできません。
 あんなにも乗りやすくシットリと私になじんでくれたあの馬が、まったく別の馬かと疑いたくなる程、私の思う ように動いてくれないばかりか、終始いらいらとして落着がなく、はては私の脚に対して反抗し歯軋(はぎし) りまでするでは ありませんか。
 ドイツでは、名人ヒンネマン氏がその馬のエンジンを温め、フル回転をさせて私がもっとも乗りやすい状態にして 乗せてくれていたのです。
 もう私の目の前は真暗になってしまいました。それからの毎日は、私にとって、まったく苦しみの連続で、寝ても さめても、どうすればドイツで乗ったときのように動いてくれるだろうかということが頭からはなれず、ついには まったく情け無い話ですが、いい年をして夢にまで見る始末。こんな話は、一般の人達には、まずご理解いただけ ないと思いますが、そのような暗中模索の状態が一か月ほど続いたある日、仏壇の中の般若心経の経本が私の目を とらえました。
 溺れる者(わら) をもつかむの例えどおり、ひよっとして、私の今の悩みや迷いを、この般若心経が救ってくれるかも 知れない、そんな考えが私の頭を() ぎりました。
 そしてひらめいたのです。
 ご承知の如く「般若心経」の経題は、正確には「仏説摩訶般若波羅蜜多心経」と言います。
 その経題の中の波羅蜜多とはいうまでもなく迷いの世界から悟りの世界、即ち此岸から彼岸へと到達するための 実践行ということであり、彼岸に到達すべく購入した馬から地獄の責め苦を味わわされている私にとって、 この波羅蜜多(六波羅蜜)はまさに仏様の声のように私の胸に響きました。
 当然のことですが、私が地獄の苦しみを味わっている時には、馬もまた私と同じように、いやそれ以上に地獄を 彷徨(さまよ) っているわけで、私が彼岸に到達できれば、とりもなおさず馬もまた私と一緒に彼岸に到達できることになります。 そして今、私の頭にひらめいた馬と一緒に彼岸に到達するために実践しなければならない六波羅蜜を、私流に解釈 してみると、
一、 布施(ふせ) 波羅蜜
馬に対して自分の持っている力(愛情をも含めて)をすべて施し与えること。
二、 持戒(じかい) 波羅蜜
すぐれた馬術書に書かれている戒律や、きまりを守り、その時々の感情に流されず自分を正 しく律すること。
三、 忍辱(にんにく) 波羅蜜
いかなる逆境、いかなる馬の反抗にもじっと我慢して、自からの未熟さを反省して耐えしのぶこと。
四、 精進(しょうじん) 波羅蜜
あらゆる努力を惜しまず、つねに向上を図ること。
五、 禅定(ぜんじょう) 波羅蜜
心を集中して、落ちついて、あわてずに着実に馬と対時すること。
六、 般若(はんにゃ) 波羅蜜
自分の技量の程を正確に認識し、本当の智慧が何たるかということをよく見きわめて、前記五つの実践を支えること。
 と、以上のようになります。
 天はみずから助くる者を助く、とは良く言ったもので、それからというものはつねに自分の未熟さを反省し、 一時に多くのことを期待することなく、落ち着いて、一つ一つ馬の反応をたしかめながら騎乗した結果、現在では ドイツで試乗した時とまではいかないまでも、なんとか我慢ができる程度になり、馬も本来の落ちつきをとり もどし、動きも大きくリズムも非常に良くなって、人馬ともにどうやら天国の入口に到達することができました。
このように、幸いにして私は馬によつて悩み、般若心経の一味違った解釈方法を見つけることができましたが、 しかしよくよく考えてみると、会社の経営ひとつとってみてもまた、つまらないと思われる仕事や、いやな上司との つき合い方等にしても、この六波羅蜜をそのときどきの環境にあてはめて考えてみると、あんがいに道がひらけ、 それぞれの彼岸に到達できることがわかりました。
 そして、本当の彼岸とは、迷い抜き、苦しみ抜いて、一たん地獄を見た人のみが悟ることのできる平常心のような ものなのかも知れない等と思ってみたりしております。