14. 馬と一緒に歩く

 「馬と一緒に歩く」。こう書きますと、皆様はきっと馬の手綱を引いて人が馬の横を歩くことだと思われるで しょうが、じつはそうではないのです。私はここでは馬に乗っていて、しかも馬と一緒に歩くことの重要性について 書いてみたいと思ったのです。
 馬術においては、旺盛なる推進気勢をつねに馬に持たせることが大前提なのですが、あの大きな図体の馬(会社) の体の中に前進気勢というエネルギーをたえず充電させながら、しかもそれをスパークさせて生き生きとした美しい 歩様をつくり出すために、騎手は馬に乗っていながら、しかもたえず馬と一緒に歩いてやる必要があります。
 「さあ馬に乗ったのだから思い切り馬に鞭を入れ、拍車で蹴って推進気勢を与えよう」とそう思っても馬は なかなか美しいリズムでは歩いてくれません。
 馬に乗りながら、しかもその馬と一緒に歩くということは技術的にはいろいろと方法がありますが、まず言える のは、つねに馬の気持になって馬の体の中に自分の体を溶けこませ、馬と一体になったつもりで常歩はもちろん、 速歩や駈歩の時でも、つねに馬の重心と自分の重心とを一点に重ねて馬の荷物にならぬように、また馬がバランス とリズムを崩さぬように心がけなければなりません。
 乗り手(上司)を荷物と感じたら馬はすぐに自分のバランスを崩し、リズムを崩して、よたよたと歩くようになります。
 どんなに立派な素質を持った優秀な馬でも、つねに荷物を背負って歩かされていたのでは、疲れがたまって前進 意欲も薄れ、いつの日にかただの駄馬になりさがってしまいます。
 後肢を大きく踏みこんで肩を高くあげて、どうどうと歩く馬、頭をたれて前肢でとぼとぼと地面をかいて歩く馬、 馬の歩き方を一目見ただけで、乗り手の上手、下手がすぐにわかります。
 お互いに心すべきことではありませんか。
 また私の行きつけの床屋の主人は手の平にスッポリと入る「爪の甘皮切り」のような小さな鋏を親指と薬指で はさんで、ほとんど手の平の中で刃を動かして髪の毛を切ります。その理由は、その鋏だと直に自分の手で髪を 切っているような気がして細かいところはぜったにそれでないと駄目だというのです。
 馬術用語にも「馬を手のうちに入れる」とか「馬を手脚の間に静置させる」というのがあります。
 これはいずれも、馬を無理なく自然のうちに騎手の体の一部にしてしまうというか、馬の体の中に自分の体を 溶け込ませるというような意味で、所謂「人馬一体」の境地を意味し、ひじょうに良い表現だと思います。 しかし馬を手のうちに入れるということは並大抵ではできない技で、その前提には人馬のお互いの納得がぜったいに 必要であり、人馬ともに何の抵抗もなく、快く自然な無理のない状態で、馬は騎手の意図することをよく理解 しつつ、自由にのびのびと運動しなければならず、騎手は馬を「手のうちに入れる」まえに、まず、 「相手の手のうちに入る」ことから始めて、その上で、「馬と一緒に歩く」ように心がけなければなりません。 お遍路さんが、かぶる菅笠に書かれた「同行二人」という言葉は、四国遍路なら弘法大師と、また巡礼なら観音様 との二人旅ということであり、あえて「同行二人」というのは弘法大師や観音様が私達を教え導いて下さるという のではなく、つねに私達と一緒に肩を並べて歩いて下さるという意味なのです。一対一で向かいあって相手を変え よう、自分の方に引き寄せようというのではなく、一緒に一つの問題について肩を並べて考えながら歩きましょう、 ということなのです。
 馬の調教にしても、また会社の経営についてもつねに「同行二人」といきたいものだと思います。