13. 練 習

広辞苑によれば「練習」とは「学問または技芸などの上達を目標に、くりかえして習うこと」とありますが、 その練習方法や練習する時の心がまえによってその上達の度合いが著しく違ってきます。
 私はつねづね若い人達に、練習に際しては二つのことをつねに念頭において行動するようにと指導してきました。
 その第一は、練習中にはっねに自分程下手な者はいないと思って練習に励み、次にいざ試合となったら自分程 上手な者はいないという自信をもって試合にのぞみなさいということです。
 しかしこの自信も、平素のたゆまざる謙虚な練習によってのみ培われるものであり、練習も満足にせずに自分の 技量を過信して試合に出場するのは愚の骨頂です。まして勝つ自信のない試合にはぜったいに出場すべきではあり ません。
 そして正しい練習の結果、自信がついていざ試合となったら今迄の練習の成果を、「どうだ」とばかり胸を張って 審査員や観衆の前で思うぞんぶん披露できる楽しさは、また格別のものがあります。
 しかしこのように自信をもって臨んだ試合であっても、その結果となると話は別で、自分より、もっと上手に なった選手が現れたりして、優勝はなかなかできないものです。
 そこでまたまた試合に負けた悔しさをバネに、なお一層の精進をすることになるのですが、何事によらず正しい 指導者のもとつねに謙虚な気持を持って練習をつんでいれば間違いなく技術は進歩します。
 相手のある格闘技やタイムを競うスポーツとは違い、馬術のような個人競技では、つい天狗の鼻も高くなりがちです。
 大衆の面前で天狗の鼻を折られる前に、練習ではつねに自からの鼻をひくくするように心がけたいものです。
 次に練習中の心構えとしては、馬の手入れを、乗り手自からが完壁にすることはもちろん、鞍や勒の外に、自分の 服装迄もきちんと手入れの行き届いたものを身につけることです。
 タキシードを着て一流のホテルで食事をすれば自然と姿勢もシャンとなるように、古くてもきれいに磨かれた長靴 をはき、自分できれいに手入れをした馬に乗って、馬場は道場、自分の人格と技を磨く道場だという気持で練習 をするのと、だらしのない服装で馬糞のついたままの馬に乗って練習をするのとでは、長い間には、両者の技量に 雲泥の差ができるのは当然のことです。
 試合の時だけ馬の手入れをし、ふだん着なれない洋服で出場しても、その結果は目にみえています。試合の時に こそもっとも着なれた服装で出場すべきであり、そのためにも平素から試合に使用する道具や服装をよく手入れして 使いやすくしておくべきです。
 スポーツの練習の時ばかりではなく、日常の生活においても、つねにきちんとした服装で毎日毎日をすごすように 心がけていれば、いいかげんなことや、だらしのない行動はできなくなります。仮りに満員電車の通勤地獄の毎日 であっても、少くとも家を出る時には靴をきれいに磨き、プレスのきいたズポンをはいている人は、なんとなく 仕事もきちんとこなすように思えて好感がもてます。
 このように私が一日一日を大切にするようになどと偉そうなことのいえるのも、じつは若いときの不摂生のたたり で、つねにニトログリセリンを持ち歩くはめになったためなのかもしれません。