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10. 姿 勢
人間の体は内臓等の関係もあって、けっして左右均等にはできておらず、馬もまた生き物である以上左右は均等
ではありません。従って、左右のバランスの違う人馬がペアを組んで演技をする馬術というスポーツは他の
スポーツにないむずかしさがあります。
ことに馬場馬術の試合では、いかなる歩様、いかなる運動においても左右均等に演技をしなければ良い点数は出ず、
とくに左右の歩様の違いは、イレギュラーということで点数になりません。
そこで馬術が上手になりたいと思う選手は、せめて自分の体だけでも左右均等になるようにつくりかえようと、
いろいろな努力をします。そしてつねに頭の重さを加えた上半身の重さが、真直に背骨を伝って左右の坐骨に均等
にかかるようにするため、「肩の高さを水平に、背骨を伸ばし、腰を張り、顔をあげ、常に顎を引くように」
と馬の上で訓練するのです。
余談になりますが、坐禅の場合には、まず身体を前後に三回、左右に三回揺らしてみて自分だけの動きの中心に
なるポイントを見つけ、身体を安定させて背筋を伸ばし、肩の力を抜くところから始めるのだと教わりました。
馬術の場合では、左右の坐骨に均等に上半身の重さをかけることができるか否かのかんたん
な実験方法として、次のようなことをしてみます。
まず椅子に腰をかけて左右の足を交互に組んでみます。そして左の足を上にして足を組んだときには右の坐骨に、
また右の足を上にして組んだときには左の座骨に何の不自然さも感じずに上半身の重さが乗るようになれば、
その人の体は大体真直で上半身の重さが真直に伸した背骨を伝って左右の座骨に均等に乗っている証拠で、
そのような体の人はおそらく坐禅を組んでも臍下丹田に力が入った美しい姿になると思います。
私も今から十数年前、長野の山奥の禅寺で、生まれてはじめて坐禅を組ましていただいた時、そのお寺の和尚から
たいへんに褒められた嬉しい経験があります。
しかしこのように毎日の訓練によって自分の身体を改良できたとしても、馬は坐禅の時の座布団と違い、
左右が不均等で、しかもその座布団がつねに激しく前後左右に揺れ動くのですから始末が悪く、つねに移動する
馬の重心に、乗り手の重心を一致させて馬に負担をかけることなく、しかも常に正しく美しい姿勢を保ちつつ
いろいろな運動をするということは、至難の技といわなければなりません。
オリンピックの体操や、フィギュアの選手が十点満点を採ることがあるのに対して、馬術の場合は各運動科目
平均で八点も採れば間違いなく優勝できるのも、この辺のむずかしさがあるからです。
いずれにしても私の場合、馬に乗せていただくことは人生修業の一つの道、馬場は人格を磨
く道場、私は馬場に入る前に必らず馬場に自ら姿勢を正し最敬礼をします。
以前にも書いたことがありますが、私には二人の娘がおり、二人ともピアノ弾きです。私はつねに二人の娘に、
ピアノを弾く前にはまず姿勢を正してピアノに向って礼をしてから背筋を伸ばし、腰を張り、肩の力を抜いて脚、
腰、座骨でピアノに迫り、両腕でグランドピアノの最先端から共鳴盤をまるごと手前に引き寄せて弾き手の
「手脚の間」(グランドピアノの中)に自分の持っている音楽性を静かに充満させて、それをスパークさせながら
弾かなければいけない、などと私一流の考えをおしつけて娘に笑われております。
馬術の場合も「手脚の間」に馬を静置させ、その馬体の中に馬のエネルギーを充満させて、常に充電しつつ
それをスパークさせなければならないと思うのです。
余談になりますが、音楽と同じように馬の動きもまた、今という時はなく、そのスパークの一瞬は一瞬前の感動に
対する余韻と、一瞬後に見せてくれるであろう美しい動きに対する期待がこめられているからこそ、美しいと感ずるのです。
人の一生が三つの呼吸のうちにしかないとするならば、お互いに生かされて生きている命です。「今」という時の
ない今の一瞬を本当に大切にしなければとつくづく思います。
何歳になっても、つねに背筋を伸ばし、腰を張り、肩の力を抜いて、後頭部を空に向って突きあげ、首を後ろに
引いて、顎をぐいと引き、前方をしっかり見すえながら、「今」を大切に生きる姿こそ、人間の生きる本当の姿で
なければならないと思うのです。
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