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9. 手 綱
昔懐しい軍歌の『愛馬行進曲』に「執った手綱に血がかよう」という一節のあったのを大正か昭和一桁の人は
きっとご記憶にあると思います。
誰の作詩か知りませんが、これは、まさに人馬一体となった時の状態をもっとも適切に表現した素晴しい言葉で
あり、人馬一体となるための調教でもっとも大切なものが馬の口と騎手の拳とを結ぶ手綱についている銜[はみ]
をいかに馬がやわらかく受けとめるかという、馬術用語の所謂「良好なる銜受け」なのです。銜とはいうまでもなく
馬の口の中に入っている金属(ごくまれにプラスチツクやゴム製の銜もある)のことで、上手な騎手はこの銜に
つながる手綱を通してつねに馬との間に軽妙なコンタクトを保ちながら騎乗することを心がけ、馬もまたその
やわらかい扶助を敏感に受けとめて馬本来の躍動力に満ちた動きをするようになります。
執った手綱に血がかよっていれば、馬の舌の動きも騎手は手に取るようにわかるようになり、調教が進むに従って、
馬はその銜を味わいながら颯爽と歩き出します。
極端な話ですが昔はよく「絹糸馬術」といって手綱のかわりに絹糸で馬に乗れなければ真の良好な銜受けではない、
等といったものです。
このように馬と人間との間に軽妙なコンタクトが取れれば、むしろ手綱は馬が自分から引っぱって歩くようになり、
馬に対するサインは手綱ではなく騎座、脚・座骨の静かな扶助と騎手の重心の転位によって行なうことになり、
傍で見ている人はもちろん、馬場馬術競技の審査員でさえ、そのサインを見つけることはできなくなります。
そして、この場合のサインは騎座、座骨、脚、重心の転位等騎手の体のすべての部分で、一つの目的に向っての
サイン、例えてみれば馬を左に行かせようとするなら騎手の体のすべての
部分で左に行けというサインを出してやる必要があります。
未熟な騎手がよく手綱をぐいぐい引っぱりながら、一方で拍車や鞭で前に進めという合図をしているのを見かけ
ますが、馬が解釈に苦しむようなサインは決して出すべきではなく、考えもなしにそのようなサインを出し続ける
騎手は、永久に人馬一体の境地を味わうことはできません。
私の知人で、接待交際費は一切認めないで、売上や利益の数字だけを前期の何割アップにしろと社員の尻を
たたいている社長がおりますが、どうしてもっと杜員を信用して仕事をまかせられないのかと、気の毒に思うこと
があります。
私の少ない経験でも接待交際費を自分の楽しみだけに使う社員は、めったにいないものです。
手綱をぎゅうぎゅう締めつけてばかりいれば、馬は苦しくなって終いには「舌を越す」といって舌を銜の上から
出すようになり、馬とのコンタクトはその瞬間からとぎれてしまいます。
優秀な営業マンなら営業マン程、売上を伸ばすために何らかの方法で交際費を捻出しようとし、かえって会杜に
とって悪い結果となります。
おとなしい馬でさえ手綱を引かれ鞭でたたかれたら、何らかの抵抗を示します。まして敏感な良い馬なら良い馬
ほど、銜を鳴らして騎手の扶助が理解できないことを訴えます。
生殺与奪の権を握られているサラリーマンは馬のように自分の感情をストレートに社長にぶつけることもできず、
赤提燈で自棄酒ということになるのですが、この点少くとも馬の方が幸
福なのかもしれません。
幸いにも人馬の話し合いが上手くついて、良好な銜受けが生まれれば、馬は銜を味わいながら、自から手綱を
引いて颯爽と歩くようになります。
しかしこれは、決して競馬でよくいう銜にかかる「ひっかかる」という状態ではなく、馬が手のうちに入っていて、
なおかつ、自主的に歩くことで、私も時たま非常に良い銜受けで歩いている競争馬をパドックで見かけることが
あります。この場合馬は鼻面を地面にすりつけるようにして鼻面を手前から前方に出しながら、ゆっくりと大股で
大地を踏みしめるようにして歩きます。
馬術用語でこの時の状態を「下口をとる」といつて、銜受けはもちろん、後肢の踏みこみも良く肋も良くこなれて、
後駆の力が完全に銜につながつている証拠で、非常に良い状態といえます。
馬にしても人間にしても血のかよっているつき合いは良いもので、また端で見ていても美しくうつります。
同じ一生、すべてにおいて血のかよった人生を送りたいものだと思わずにはいられません。
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