8. 無条件の愛

 日本体育協会には現在四十七の団体がありますが、1994年のアジア大会には、新たに十六もの団体の参加希望が あり、これを加えると日本で国際的な競技会に参加できるスポーツは、六十三となります。
 しかしその中で、生き物と一緒に行なう競技はといえば、馬術をおいて外にはなく、従って馬術競技は自分との 戦いの外に図体の大きな、それでいて口のきけない馬との調和をつねに保ちつつ、お互いに理解し合い、 馬の協力がなければ決して良い成績をあげることのできない競技なのです。
 このような理由で、生き物との二人三脚の馬術というスポーツは、競技を離れても馬とのつき合い方しだいで、 非常な醍醐味を味わうことができ、むしろ競技等のように、お互いに競い合ったり、勝った負けたの血なまぐささ を超越して、自分と愛馬との間だけで羽化登仙の境地に達することのできる素晴しいスポーツだと思います。
そして人馬共に仙郷に遊ぶための調教方法について、私は以前「馬を調教するということは、いかに馬に上手に 調教されるかということだ」と書きましたが、調教とは、つねに馬にとって良かれと思うことのみを行ない、 焦らず、無理をせず、決して代償を性急に求めることのない、無條件の愛を持ち続ける必要があり、いやしくも 馬術家を認ずる者は、まず馬を幸福にして、次にその馬の幸福感のおあまりを、ほんの少しだけいただくことで満足 するという気持を忘れてはなりません。
 いいかえると、馬の幸福のおあまりをいただく以外に、馬術家の真の幸福は絶対にあり得ないのです。
 ご承知の如く、馬はその背中に重い人間と鞍を乗せて、腹を腹帯でしめつけられ、口の中に鉄の棒を入れられて、 ぐいぐいと手綱で引っぱられ、そのうえ鞭でたたかれ、拍車で腹を蹴られるという、まさに地獄の責め苦を毎日の ように味わわされ、しかもその苦しみから逃げる途のまったくないまま、来る日も来る日もじっと耐え忍んでいるのです。
 この馬の苦しみは、私にはどことなく、養わねばならない妻子をかかえ、住宅ローンの支払いに追われ、その上 会社のノルマにおびえつつ上司の鞭や拍車にじっと耐えている現在のサラリーマンに似ているように思えてしかたが ありません。
 従ってこのような哀れな状況におかれている馬を生き生きと働かせるためには、まず何をおいても、馬を自由な 状態にしてやることが大切です。
 馬場馬術において、馬の解放性と生き生きとした馬本来のリズムを最重要課題とする所以がここにあります。
 もしも、馬が人間を乗せて、苦痛を感ぜずに、自由に生き生きと動いてくれないならば、乗馬というスポーツは 何のためにこの世にあるのか、絶対に動物虐待の誇りをまぬがれることはできないでしょう。
 馬が人間を乗せて喜び勇んで歩きかつ走ってくれるからこそ、そこに人馬一体の調和の世界が生まれ、騎手もまた 雲の上を歩いているような幸福感にひたることができるのです。
 何の罪もない馬を、已れの未熟さを反省もせずに、鞭や拍車でいためつけて無理矢理に走ら せるほど、罪なことはなく、またそのような権利は人間にはないはずです。
 しかし、あえてそれを強いる調教士や騎手はやがて馬との戦いに疲れはて、空しさを味わい、ついには馬に乗る ことを諦めざるを得なくなるでしょう。
 私達馬きちがいは、馬が健康で、幸福そうにしていれば、唯それだけで何も馬に乗らなくても幸福感にひたること のできる変な人種なのです。
 会社でも家庭でも、私をとりまく人達が皆、幸せそうにしているのを見るのは気持の良いものです。

   "生きているすべての生き物と
    触れ合って心あたため
    生きたいものを"