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7. 敢行・貫行・慣行
馬を調教する上でつねに忘れてならないことに「善因善果・悪因悪果」の原則があります。
言いかえると善い行ないをすれば必らず善い結果が得られるということです。
しかし、ここでよく考えねばならないのは、仮りに騎手が馬にとって善いことだと信じて行った行為であっても、
それが馬にとって都合の悪いことであったとしたら、馬は必らずその騎手に対して何等かの反抗を示します。
「あんなにも、この子の将来のためを考えて良かれと思ってやったのに」と悔む親も、結局はその子にとっての
悪因を、子どもにとっての善因と勘違いして、とった行為であったのと同じです。
非常に多くの馬の調教を手がけた経験豊かな調教士でさえ、ときには良い結果を期待して行
った調教に対して、馬からまったく思いもかけない反抗を受けることがあります。
しかしそのような場合でも、馬に対する絶対の愛情と、思いやりとがありさえすれば、その反抗の原因が今調教士
が行なった行為に起因するものなのか、それとも馬の健康上、あるいは骨格上等の理由からひきおこされた反抗
なのかを正確に見きわめて、次の手を考えようとするでしよう。
しかしここで問題なのは、仮りにその調教士があまり経験もなく未熟な人であった場合、その馬の反抗が何に
起因するのかを正確に判断することができず、ただ、今迄の調教方針が誤りであったのではないかという反省だけが
先に立って、あの手この手と考え迷ったあげく、短期間にいろいろな方法を試みてしまうことがあります。
そうなると、馬の頭はますます混乱して調教士の扶助に対して一体どのように行動したらいいのかまったくわから
なくなってしまい、ついには立ちあがったり、後ずさりをしたりと手がつけられなくなってしまいます。
そうなると調教士の方も、自分の未熟さを棚にあげて堪忍袋の緒を切って、あとさきのことも考えず、鞭や拍車で
懲戒を繰りかえし、最後にはこの馬はまったく手におえない馬鹿馬だ、という烙印をおして調教を断念してしまいます。
しかしこの場合、本当の犠牲者は調教士ではなく、じつは馬の方で、馬はただ毎回変る調教士のサイン通りに動いたにすぎず、
それが調教士の意志に反したからといって懲戒されたのではまったく立つ瀬がないというものです。
このように調教上で馬のみせる反抗の大半は、調教士が自分の思っている動きをさせるための適切な扶助を馬に
与えることができないところから来るものです。
従ってこの場合の正しい判断は、まず経験豊かな先輩に見てもらい意見を聞くことで、その結果、反抗が騎手の
未熟さ故のものか、または馬の健康上、骨格上から来たものかを適切に判断し、そのうえで、なおその原因が思い
あたらず、たんに馬がその行為に対して初めての経験から対応に迷っての反抗であると判断したら、調教士は今迄の
方針をさらにこまかく分析して、馬が調教士の要求を理解しやすいように、また性急に完壁な善果を期待すること
なく、少しでも良い反応を示したら間髪を入れず愛撫を繰り返えし、気長に納得させるように努め、仮りにも一たん
やりかけた調教方針を変えてはなりません。
しかしこの場合も馬に対して調教士の要求を一方的におしつけるのではなく、馬に骨格上の問題があると同じ
ように、調教士の方にも骨格上から馬にその要求を正確に伝えられないという問題も多分にあるのですから、
つねに自分の欠点を正確に把握したうえで、馬に接することが大前提となることはいうまでもありません。
このように自分の欠点も反省しつつ、つねに愛撫を忘れずに、順序を踏んだ調教を行なうかぎり、やがて馬は
その扶助を理解し、習慣とすることができ、ここに禅僧のいう「敢行・貫行・慣行」の意義があるのです。
飛越能力の足りない馬を、無理矢理に大障碍飛越競技に出場させて失権するよりも、それらの馬には
中障碍飛越競技で入賞するとか、あるいは馬場馬術競技で優勝する等の道がいくつでも考えられます。
自分の子どもに多くを期待するあまり、子どもの能力をも考えず、何が何でも親の考えをおしつけて、
子どもの将来の方向づけをするのは考えものです。馬を調教するに当っても、まずその馬に本当に見合った将来の姿
を真剣に考えたうえで結論が出たら、迷わず一つの調教方針を貫ぬくべきです。子どもの教育にしても、まず親で
しか教えることのできないこと、人間として何が一番大切なことなのかを親として真剣に考えたうえで、
導き出された教育方針を貫き通し、一つでも多くの良い習慣を身につけさせて、その習慣の奴隷になれるような
子どもに育てるのが親の本当の義務教育です。
人間が考える葦であるのなら、愛を考えないで、一体人間は何を考えるべきなのか、馬の調教にしても、
馬に対する真の愛を大前提として導き出された調教方針を、迷うことなく敢行する勇気もまた大切だと思います。
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