とかくこの世は住みにくい。
この世のことを「忍土」といった人もいるくらいで、事実、私も会社を経営していた時などは、つねに我慢我慢
の連続で、なかなか自分の思い通りにいかないことが多かったように思います。
そんなに苦しい毎日ならば、いっそ、あっさりとこの世におさらばをして「後は野となれ山となれ」と割り切って
しまえば良さそうなもの、そんな勇気(?)も持ち合わせぬままに、ずるずるとその日その日を送っているのも、
いつかひょっとして楽しいことがあるかも知れないという淡い希望があるからなのでしょう。
身をすててこそと承るが
そのすてるちからが
私にはないので
ようすてぬままに
大悲の中を
ほくほくとあるいている (榎本栄一)
楽しいはずの馬の調教でさえも、まったく同じことで、馬はなかなか私の思い通りには動いてくれず、私にとって
の調教は毎日毎日が苦しみの連続のようなものです。馬に乗るのを、今日はやめようか明日はやめようかと迷い
ながらも、それでも汚れを知らない美しく澄んだ馬の目に出会うと、ついついその大悲にあまえてしまい、
今のこの苦しみは已の技術の未熟さからきたもので、この苦しみを貴重な経験、貴重な反省の機会だと思いなおして、
今この苦しみを何とか克服すれば、必らず人馬ともに天国をみることができるような気がして、苦しみを楽しみに
かえようと勇気を奮いおこしてみるのです。
このように馬については偉そうなことのいえる私も、一歩現実の生活に立ちもどった時、ややもすると、
どうせこの世は思い通りにはいかぬもの、わがまま勝手は許されぬものと諦めて、何事も辛抱辛抱、我慢我慢と
悟ったような気になってしまうのです。
しかし、何事においても、私の馬術のようにこの馬によって必らず幸福をつかんでみせる、人生の醍醐味を
味わってみせるというように、はっきりとした目標なり、将来に対する希望を持つことができたら、きっと毎日の
苦しみも楽しみにかえることができるはずです。
そして「日日是好日」という言葉は、きっとそのような気持で毎日毎日を送ることのできる人のことをいうのでは
ないでしょうか。
憂いのない人生なんてあり得ません。
憂いをたくさんかかえて、しかも憂いのない生活を送ることこそ学ばなければならない生活の術である、
とヒルティーは言っております。あるいは憂いのなかに喜びを見出すことのできるような日々を送りたいと真剣に
努力している毎日こそ、真の「日日是好日」なのかも知れません。