5. 体でおぼえる

 「精神にとって最も危険なことは、速成と功利性の追求である」(亀井勝一郎)

 これはスポーツにとっても同じことで、とくに最近の若い人達は、世の中があまりにも忙しくまた複雑に なりすぎたために、緊急に覚えなければならないことや、やらなければならないことがありすぎて、何事もまず 要領よく頭の中だけで覚えようとする傾向が強いようです。
 そしてこの、体を動かすことを惜しんで、少しでも楽をして、早く上達しようとする傾向は、今の杜会構造から くるものなのかも知れませんが、私にはどうしても幼い時に親や学校の先生から、少しでも効率的に要領よく 生きることを身につけるようにと強く教育された結果のように思えてなりません。
 私の知っている運動選手のなかにも、スポーツは体が覚えてくれないことには話にならないということを充分に 承知のうえで、なおかつ、なんとかして楽をしながら、体が覚えられないものかを真剣に考えている人が何人もおります。
 いくら頭で考えても体が覚える方法等あるはずもなく、またかりに体が覚えてくれたと思っても、そのような付け 焼き刃は咄嵯の場合、何の役にも立ちません。
 馬術にしても、人に知れない努力を積み重ねながら、自分の体を痛めつけ、鍛え上げてこそ初めて馬と言葉が通じ合えるのです。
 動いている馬の背中の上で、今この扶助を使えば良いということが頭でわかっていても自分の体の構造上、 その扶助が使えなければ、馬は決していうことを聞いてはくれません。
 人馬一体となった運動をするためには、人から強要されるのではなく自分の意志によって体の筋肉はもちろん、 骨格の構造迄も変える必要があります。
 よく「人をまるで手足の如く動かす」とか「意のままに動かす」ということを申しますが、真に鍛えあげた手足 であって初めて、自分の意志のままに動かすことができるので、私等はつねづね自分の手足ぐらい自由にならない ものはないと思っております。
 また「意のままに動かす」ということも、スポーツの世界ではまず自分の頭の中で考え判断してから行動に移して いたのでは間に合わない場合が大半で、ただただ無意識のうちに体全体でバランスを保ちながら反射的に動いてこそ、 はじめて正確な対応というか自然な対応ができ、リズムも崩れないのです。それは例えてみれば突然の停電でも 無意識に箸でつまんだ食物を何の抵抗もなく正確に口に運べるようなものです。
 スポーツ以外の日常生活においても、このようにまず頭で考えてから行動するのではなく、無意識のうちにごく 自然に相手の立場に立って行動できるような「やさしい心」が持てるようになりたいものです。
 私もかつて無意識のうちにとまではいかない迄も、自己の精神修養によって私心を捨て、ごく自然な形でお互いの 意志が通じあえて、お互いがそれぞれに鍛え抜かれた本当の手足の如く働くことのできる人達と一緒に仕事をして みたい、そうしたらどんなに楽しいことだろうなどと夢のようなことを考えたことがありました。
 けれども現実には、何か事件がおきるたびごとに、自分の至らなさをいやというほど思い知らされた苦い経験ばかりが記憶に残っており、恐らくこれからも毎日の暮しのなかでこのような苦い経験を繰りかえしながら体でおぼえるための反省の日々が続くことだろうと思っております。