人の一生が旅だというならば、その日その日の生活そのものが旅であり、生きるということは、
つまるところ、そうした毎日の暮しの中での出逢いと別れの繰り返しだと思います。
私達の長い人生のうちにはじつに数多くの人達との出逢いがあり、そして別れがあります。
良い人達と出逢うことによって、その人の人生は豊かになり幸福にもなりますが、反対に運悪く、悪い人と出逢ったために、
まったく思いもかけないような不幸な目に会わされた経験をお持ちの方も少なくないと思います。
けれども「事実は小説より奇なり」で、この世でまったく会い難いと思われるような関係にある人間同士がめぐり
合い、暮しをともにするのもまた何か目に見えない不思議な「縁」の働きによるものと思えば、この出逢いの
不思議な縁を何としても大切にしたいものだと思わずにはいられません。
そして私にとって、馬との出逢いもまた、人との出逢いと同じように、不思議な縁によって引き寄せられた
ものばかりで、私が今迄に飼った馬は今いる馬も入れて十三頭、皆それぞれにかわいく、懐しい思い出だけが
残っております。自分達の生活が苦しくて家族に迷惑がかかることを充分承知のうえで、妻や子どもを無理矢理に
説得して飼った馬、調教がなかなか進まず苦しみ悩んだ馬等、今思い出しても、よくこのようなわがままが続け
られたものだと、我ながら呆れると同時に、私のわがままを許してくれた家族の人達に感謝しつつ、この恵まれた
これからの人生を私の家族や私をとりまく人達のためにせいいっぱいつくさなければ罰があたると、馬の調子の良い
時などに「ふっ」と考えることがあります。
幸福への追求の基本には、人間の本能である快楽と自由が必要なことは申すまでもありませんが、自分をとりまく
人達のためにあらゆる努力をはらって、その人達の幸福の「おあまり」をいただくこともまた大切なことだと思います。
独楽は自分の軸で廻り、自分の心棒を中心にして廻っているから一人でも立っていられるのです。
私達もまた心の軸を、誰からも束縛されずに、自分の思うように、自由に生きるのだという信念と、自分を
とりまく人達のためにつくすという奉仕の精神をもって、独楽の如く自分の足、自分の信念を軸としてせいいっぱい
生きることが出来たら何と素晴しいではありませんか。
それと同時に「独り楽しむ」と書いて「こま」と読ませた先人の知恵には何か深い意味があるように思えてなりません。
いささか話がそれましたが、良い馬、自分にあった馬との不思議な出逢いによって調教は始まり、その馬との
二人三脚(?)によってその人の人生もまた豊かになります。
その人の前では絶対にうそは言えない
その人にはどんなごまかしも通じない
その人には絶対に頭が上がらない
だからその人はおっかない
しかもその人の前にいると安心で
いつも心の中が洗い清められ満たされる (相田みつお)
相田みつおの「その人」とはきっと仏さまのことなのでしょう。
しかしこの世の汚れを知らない、うるんだようなあの黒く大きな馬の目を見ていると、きっとこの詩が私の頭に
浮んで来るのは「絶対にうそはつけない、どんなごまかしも通じないその人」とは、じつは私の場合、問違いもなく
馬だったからに違いありません。
そしていつの日にか私も、あの馬の目のように邪念のない澄んだ瞳になりたいと思うあたり、やはり私は完全な馬きちがいであり、馬鹿は死んでもなおりそうにないし、またなおりたくもないと考えてしまうのです。