4. 心の(くら)

 難しい心臓の手術から早いもので七年の歳月が流れた。
 それはある程度「死」を覚悟してから七年もの間、仏様から「生かさせて頂いた」ことを意味する。
 最初に私がこの病気に気付いたのは、今から十数年前、手足のむくみがひどく、馬に乗っても息切れがして、何となく 気力が衰えてきたと感じたからだ。
 しかし、私流に、これはてっきり肺が悪いのだと思い込み、いつか暇をみて大学病院に行って診てもらおうと呑気に構えていた。
 ところが、インターハイの馬術の開会式に出席するため、那須に行こうとして上野まで行ったら、突然目がまわり、まるで 二日酔いの如く景色が二重に見え出して、ものすごい吐き気がおそってきた。
 あわてて上野駅のプラツトフォームを這うようにして駅の便所にたどり着いたが、それから先のことはまったく覚えがない。
 どのくらいの時間が経ったのか便所の戸をたたく音で意識が戻ったが、その時は汚い話だが金隠しを枕にのびていた。
 駅の便所で御臨終とは格好も悪いしまたあまりにも情けないと懸命に気力を振り絞ってタクシーを拾い、やっとの思いで家に辿り着いた。
 早速、近所の医者に来てもらったら、馬がレース中にかかることのある「心房細動」の発作で心臓の病気だという。
 大変に古い話だが、昭和三十九年の東京オリンピックの選手選考会の第一次審査に合格し、大学病院で身体検査を受 けた折、心臓は人一倍強いと太鼓判を押されたことがあった。
 現に、大学を卒業して暫くの問、私はある会社のボート部に入れられてボート(ナックル・フォア)を漕いでいて、 隅田川のお花見レガツタや実業団レガッタにも何度か出場しており、心臓には自信があった。
 いくら私が馬乗りだからといって馬の病気の心房細動とは失礼なと憤慨して、早速大学病院に行ったら、正真正銘の 心臓弁膜症だと診断され、即刻入院させられてしまった。
 心の準備は勿論のこと、入院のための何の準備もないまま一人病室に残された私は、何故よりによって心臓病等という 厄介な病気になったのだろう。例えば盲腸炎とか胃潰瘍なら少々悪くても手術をすればなんとか普通に生活ができるものを、 心臓だけは人工弁にでもなれば社会復帰は難しく、万一心臓が停まりでもしたら唯ではすまない。
 病気はどうしてこっちの都合で選ぶことができないのだろう。「仏様、そっちの都合もあるでしょうが、心臓病は今 のところ少々都合が悪いので、せめて盲腸炎あたりで御勘弁頂けませんか」という具合に仏様と交渉できないものだろうか と変なことを考えた。
 しかし、次の瞬間、親が子供を選び、子供が親を選ぶことができないように、病気もまたこっちの都合で選ぶことは できないことに気がついた。
 それは、病気もまた仏様からの授かりものに外ならなということだ。
 仏様からの授かりものの病気なら、仮にそれがある種の癌の如く死に至るものであったとしても、決して文句を言う わけにはいかない。
 私の心臓病が仏様からの授かりものであるのなら、その病気と仲良くして、それから先の人生をなんとか悔いが残らぬ ように生きなければならない。
 選ぶことのできない病気なら、その病気とともに生きる人生もまた他人に代わってもらうわけにはいかないのだ。
 「他は是れ吾に非ず」と自分の人生は自分自身で切り開く以外に道はないと覚悟を決めた。
 五臓六腑の一つである心臓のことを仏教では「心をしまっておく蔵」だという。
 「心ここに在らざれば、食えどもその味を知らず」(中国の古典「礼記・大学」)というが、心の蔵には一体どのような ものを納めておけばいいのか、また納めるべきなのか。
 欠陥のある私の心臓は自分の知らぬ間に漏れ出して、どんな迷惑を人様にかけるかもしれない。
よくよく心して(おさ) めるものを決めなければならないと思うが、しかし今現在私の心の蔵に入っているものは私が生まれて 今日まで生きてきて感じたり思ったりしたことだけかというと、どうもそれだけではないようだ。
 私達の心の中には両親や祖父母、先祖代々のいろいろな思いが、言い扱えると私達のまったく知らない思いまでが 入っているように思えるときがある。
ちょうどこの原稿を書いている時、社団法人・日本馬術連盟の役員のスキャンダルが大々的に新聞に報じられた。
 私も三十数年前、連盟の理事をしていたことがあり、当然彼等とは今でも親交があり、個人的には皆それぞれに愛すべき ところのある後輩達である。
 しかし、今回の事件は連盟や真面目に馬を愛している私達選手にとっては、なんともやりきれない話で、世間一般に報道 されたこの不名誉を挽回するのは容易なことではない。
 事実彼等がどのようなことをしたのか、その真相は本人から直接聞いたわけではないので何とも言えないが、仮に新聞に 報道されているような事実があったとしても、それは恐らく彼等自身でも理解できない悪い思いが心の中の蔵に入っていて、 ある日突然一つの縁にふれて心の蔵から飛び出してしまったのではないだろうか。
 俗に言う魔がさすということで、これは非常に恐ろしいことだと思う。
 このように人間の心の蔵には実にいろいろな煩悩が入り込む可能性が極めて高いだけに、努めてそれを排除して仏性を 納めるよう常日頃から精進する必要があると同時に、人間が心豊かな人生を送るためには、身体の健康診断も勿論大切だが、 是非とも心の健康診断をしておく必要があると、つく、づく思う。
 「内視鏡で貴方の内蔵を拝見しましたが、大分煩悩がたまっていますね、大晦日まで待たずに今回五十ヶ程、煩悩を切除 しておきましょう」等とポリープのように取ることができたら、世界はもっと平和な住み良いものになると思うのだが。
 そのためにも宗派を問わない世界的宗教が是非とも必要なのに、逆に宗教に起因する争いが絶えないのは何とも情けない限りだ。
 心の病を治すための宗教とは一体何なのか、宗教が戦争の原因になるようなら、そんなものはこの地球上から抹殺すべきだ。

(1997.8)
 (2000年4月、盲腸炎になり、その上御丁寧に腹膜炎まで併発して15センチも切られた上、ゴム管まで通されてしまった。)