8. 盲 腸

 四月五日の未明、右腿の付け根の上が、ひどく痛み出して目が覚めた。
 前日、不自然な姿勢で長時問粘土着けをしたためかと思ったが、時間が立つにつれて腹の皮がやけにつっぱってかたくなってきた。
 これはてっきり疝痛(馬の腹痛を伴う病気、便秘疝、風気疝)に違いないと素人判断をしてホカロンで腹を温め、腹をが むしゃらにもみ続けたが一向にボロ(馬の糞)の出る気配がない。
 それではと下剤を馬なみに飲んでみたが、やはり何の効き目もない。
 こんな状態では今日は千葉県まで馬に乗りにはいけないと、とりあえず近所の医者に診てもらったら、軽い腸閉塞 だろうと言われ大きな浣腸を二本もくれた。
 尾籠な話だが早速家に帰って使用したがますます下腹が張ってきて痛みもひどくなるばかり。
 少々心配になって、今度は駅前の総合病院に行ったら、すぐにCTスキャンを撮ってくれて、間違いなく盲腸炎で、 しかも腹膜炎を起こしかけているからすぐに手術の手配をしますという。
 「私は七年前に心臓の手術をして今でもいろいろな薬を飲んでいる」と言うと、「それではこの病院よりカルテの揃って いる行きつけの病院で手術をして下さい」ということになった。
 そこで一旦家に帰り、主治医に連絡を取ると二時間程して、やっと手術の段取りがついたから救急車で大至急来るようにとのこと。
 早速一一九番に電話して、「家が袋小路なので広いバス道路まで出て待っているから、すぐ来て下さい」と言って電話を切った。
 折悪しく家にいた三人の孫達は、救急車が来るというので大(はしゃ) ぎ、私は痛みを我慢して孫達に、「昔の武士は少しぐらい の痛さで人袈裟に騒いだりはしなかった。お前達も少々の怪我ぐらいで泣いてはいけない。私を見習え」と大見栄を切った。
 五、六分で救急車のサイレンの音がして、小雨の中私は小走りで救急車に乗ろうとしたら、車の運転手が、「この車は 東京都民何万人に一台しかない」とまるで重病人でもないのにむやみに車を呼ぶなと言わんばかり。
 もっとも孫達も私に続いて車に乗り込もうとする始末で、これでは運転手に半分仮病と思われたのも無理からぬ話。
 大学病院に改めて確認をとった運転手は、やっと納得して車は走り出した。
 小雨の降る午後三時過ぎの都内の道、普通なら有に一時間半はかかるところを、さすが救急車、約三十分で病院に着いた。
 すぐに手術に必要な検査をして手術が始まったのが午後六時半、腹を開いてみると完全に手遅れで腸が破れて腹膜炎になりかけていた。
 下半身の麻酔のため、痛みは感じないが、腹の中を何回も温水で洗っているような感じがして、切ったところより10 センチ程離れた所にゴム管を通して手術は約一時間半で無事終了。
 ところが、手術は終わったものの肝心の病室の空きがなく、とりあえず集中治療室で我慢してくれという。
 我慢するもなにも、家に帰るわけにもいかず、どうかよろしくお願いしますということになって、カーテンで間仕切り された堅い小さなベッドに寝かされた。
 身体の中に何本もの管を入れられた麻酔のさめきらぬ身体は身動きもできず、自分の下半身をさわってみると、 まるで蝋細工のように冷たく、感覚はまったくない。「なんの因果でこんなことになったのか。心臓手術の時は、 なんでこの俺が心臓なんだ、せめて盲腸炎ぐらいにしてくれてもいいじゃないか」と御先祖様を恨んだが、御丁寧に今度は 盲腸炎で15センチも切られてしまった。
 その上、集中治療室の夜は無限に長く、両隣の患者は今にも息を引きとりそうな様子で親族の人も何人か来ている。
 何か考えていないと気が変になりそうだ。
 以前、心臓の手術の時は成功率50パーセントということで、意識が戻った時は嬉しさが一杯で手術後の苦しさも我慢 できたが、今回は手術の前から命に別状はないと信じていたから、まったくの草臥儲(くたびれもう) けだ。
 それなら、この悪夢のような時間も有効に使わなければ損だと、約一ヶ月後に迫った馬術大会のグランプリ馬場馬術競技 の経路どりとその扶助を一晩中懸命に考え続けて、二、三新しい発見をした。
 そのかいあって、四月二十日の馬術大会には、ぶっつけ本番にも拘わらず、二個の金メダルを首にかけることができた。
 (約一ヶ月間私が馬に乗らなかったのが優勝につながったというのが本音の話)
 約一日半我慢して、やっと病室に移り新宿の夜景を眺めつつ眠りについた。
 それから一週間、心臓手術の時もそうだったが盲腸炎も所詮は怪我の一種、傷の治りも日一日どころか、刻一刻と痛みが 薄らいでお腹のゴム管を引き抜いて馬に乗りたい気分。
 待望の退院から五日後、上野の東京都美術館で今年の「敬老の日」に放映が予定されている録画撮りをやりたいとテレビ 局から言って来た。
 四月五日より開催している日彫展に私の馬の彫刻が出品されていて、その前で一シーンを撮るというのだ。
 撮影の当日、スタッフと午前九時に現地で落ち合うことにしたが、手術後の身には自動車の運転は無理なので、地下鉄 日比谷線を利用すれば乗り換えなしで上野迄行けるのを幸い、電車が混雑しない早朝に家を出た。
 上野に着いたのは午前七時半、美術館隣りの動物園前のベンチに座って約一時問、腹の傷が痛みだしたので、隣りの ベンチのホームレスの真似をしてゴロリと仰向けになってみた。
 新緑の若葉を通して澄み切った青空が大きく広がり気持ち良い風が頬をなでる。
 あまりの気持ち良さに、ついうとうとしたら、何となく人の気配を感じて目を開くと通行人が不審そうに私の顔をのぞき こんでいた。
 九時近くになったので人通りが多くなったが、ベンチに仰向けに寝ると人の姿はまったく視野から消えて、青空のもと 自分だけの世界がそこに広がる。
 屈託のない良い顔をしたホームレスの人達の気持ちが何となくわかるような気がして、ひとりでに坂本九ちゃんの 「上を向いて歩こう」のメロディが浮かんできた。  今回の急性盲腸炎では何一つ得るところがなかったが、家族の者達は「仏様がたまにはゆっくりと休めということだ」等と聞いた風なことを一言ってくれる。  どうせ休ませてくれるなら痛くない方法を考えてくれてもいいのにと恨めしく思った。
 それでも、馬術大会には出場できたし、ホームレスの気持ちも体験したりと満更捨てたものではなかったようだ。
 その上、この原稿を書くために『家庭の医学』なる本を開いてみたら、虫垂炎で穴があき、膿が腹全体に広がり、 膿を出すためのゴム管が長く入っていた人は、手術後激しい運動は腸閉塞になる、と書いてあった。
 手術後僅か二十五日目で馬術競技に出場したのに腸閉塞にもならなかったのは、やっぱり御先祖様に救われていたのかも しれない。桑原!桑原!

(2000.6)