7. エッセイ

 私の小学校の同級生に松岡新児君という男がいる。
 家が近かった関係もあって、よく一緒に遊んだが、それぞれ違う中学校に進学したため、交遊の途絶えた昭和十九年頃、 彼はどこかへ引越していった。
 もっとも当時は戦時中で、お互いに他人の動静を気にする余裕等なかった時代であった。
 やがて戦争も終わり、同窓会で久し振りに顔を合わせた私達は、やはり小学校の友達が一番遠慮がなく、すぐに昔の 「新ちゃん、修ちゃん」にかえることができた。
 戦前彼の住んでいた芝生のきれいな大きな家は今はなく、その跡地は三区画ほどに分割されて、所謂文化住宅が建っている。
 偶然にも、そのうちの一軒に私の姪が住んでいるので新ちゃんのことを思い出す機会も自然と多くなっている。
 彼の母親は私の幼い記憶によれば、背の高いスラリとした美しい婦人だった。
 彼女の名前は「筆子さん」。あの夏目漱石の長女である。
 父親は松岡譲さんという作家で、口をきいたことはなかったが何故か非常におっかない人だという印象だけが強く残っている。
 しかし、久米正雄の小説『破船』によれば、譲氏もまたなかなかの美男子だったらしい。
 「栴檀(せんだん)双葉(ふたば) より芳し」というが、その当時から女の人には興味があっても、男の人にはまったく興味が湧かない今の私 の性質を如実に物語っているようで我ながらお笑いである。
 友人の新ちゃんは早稲田大学文学部を卒業後、NHKに入り、放送記者として活躍した後、放送文化研究所で放送の言葉 を研究し、文章に関する著書もある。
 現在は日本大学法学部新聞学科の教授をしている。
 私が『馬耳束風」を書き出した十年前のある日、たまたま彼と会った折に「生意気に俺も最近月刊誌にエッセイらしき ものを書いている」と言うと、信じられないような顔をして、「不特定多数の人に読んで頂く文章を書くのは、なかなか 難しいものだ」と言いながら、それでも、いかに文章をわかりやすく簡潔に書くかという内容の彼の著書を送ってくれた。
 さらに物書きの先輩として、エッセイを書くなら、私的な経験を主観的に書くといいと教えてくれた。
 そう言われて改めてエッセイ(随筆)を辞典でみると、「自由な形式で書かれた個性的色彩の濃い散文・試論・小説・筆 にまかせて書いた文」とあった。
 早いもので、それからはや九年の歳月が流れ、お陰で私のエッセイも今回で百二十回。
 十年一昔というけれど、よくも厚かましく書いたものだ。
 そして今改めてこの十年を振り返ってみると、良い事、悪い事、嬉しかった事、悲しかった事、実にいろいろな出来事があった。
 お陰でそれらの事件をネタに拙文をまとめ、やっと今日迄きたというわけだ。
 一、会社の整理 (1989年)
 一、六十の手習いの彫刻 (1990年)
 一、日本で四人目の心臓手術 (1992年)
 一、馬術の現役選手として再出発 (1995年)
 会社の整理も心臓の手術も、マイナスと考えず、「人間万事寒翁が馬」と割り切ったお陰で、現在は彫刻も馬術も現役 として案外楽しく毎日を送っている。
 しかし、何といっても最大の出来事は、エッセイを十年間も休まずに書かせて頂いたことだ。
 偉そうなことばかり書いたために、浮気もできず十年間も色気抜きで過ごさねばならぬ羽目になったが、毎月一つの テーマを取り上げて、それにもっともらしく自分なりの結論づけをしようと本を読んだりメモを取ったりと私なりに勉強 したメリットは大きかったと思う。
 そして毎月エッセイを書くことで身に付いた習慣を活かして何とか生涯学習が続けられそうな気がする。
 ところが、新ちゃんの忠告を守って主に自分の身辺のことを書き続けたため、私の家系や家族のことは勿論、私の出生 の秘密迄暴露する羽目になってしまった。
 最近、自分史を書くのが流行(はやり) と聞くが、いい気なもので、私も「コア」という月刊誌の紙面を借りて厚かましくも十年間 にわたり自分史を書いたことになる。
 誠に有難いことと心より感謝している。
 昭和五十七年九月二日より綿々と続いているTBSのラジオ番組、「秋山ちえ子の談話室」の秋山ちえ子さんは常に 縦15センチ、横11センチ、厚さ1センチの横罫の手帳を持っているという。
 八十歳半ばと思える秋山ちえ子さんの放送は約一万二千回、何と私の百倍である。
 私の拙文もこれから先、何回続けさせて頂くかわからないが、なんとか秋山ちえ子さんを見習いたいと思っている。

(2000.4)