6. 品 性
子供の頃には極端に体が弱く、小学校では欠席ばかりしていた私も、お陰様で何とかこの五月で古希を迎えることが
できそうだ。
杜甫の時代には、「人生七十古来希」等と言われたものだが、「人生八十年」の今日、恐らく百歳以上の老人が一万人
を超すのは時間の問題のように思われる。
そうしてみると、古希の祝いも満百歳に訂正したほうが妥当というものかもしれない。
現に三ヶ所の大学病院に保管されている私のカルテには十指に余る病名が記されているにも拘わらず、現代医学と仏様に
助けられながら去年の暮れには、シドニー・オリンピックの選考会を兼ねた全日本馬場馬術選手権に出場し、馬が体調を崩
したために残念ながら三日間通算で八位におわったものの、今年こそ順位を上げようと正月早々密かに意欲を燃やしている
(四十年前に優勝の実績あり)。
去年の正月にドイツより輸入された私の愛馬は高温でしかも湿気の多い日本の夏を初めて経験し、十月に入り秋風が立つ
と同時に夏の疲れが一気に出て、すっかり体調を崩したけれど、今年の秋には湿気の多い日本の気候にも慣れて、万全の
体調で試合に臨むことができるだろう。
その上、私と馬との折り合いも良くなってきたことだし、私の今年の目標を六位以内として今年一年あらゆる努力をして
みようと思う。
「一年の計は穀を植ゆるにあり
百年の計は徳を植ゆるにあり
人の最も植ゆるべきものは徳なり」 「義堂周信」
古希の正月を迎えるにあたり、私のもう一つの目標は、老醜という言葉はあっても老美という言葉がないように、日に日
に老いて醜くなる我が身の将来を考え、老美とまではいかないまでも少しでも品性を高めて有終の美を飾るための努力をし
ようと心に決めた。
ところが、いざそのように今年の目標を定めてみて、さてそれでは具体的に品性を高めるにはどうすれば良いのか、
一体「品性」とはどのようなものなのかを改めて自問自答した時、品性を高めるということを唯漠然と理解はしてはいても、
正確にはそれを言い表わすことのできない自分に気がついた。
「人の最も植ゆるべきものは徳なり」の言葉の如く、辞書をひくと、人間の道徳的面からみた価値だとあるが、これとて
も何となくスッキリしない。
今年の目標を決めてはみたものの、その方法が分からないのでは目標達成の目途も立たないわけで、私なりにいろいろ
考えたあげく、「品性」とは「心のかたち」ではないかと思えてきた。
人間の心は身体のどの辺にあるのか誰も説明できないし、第一目で見ることもできないけれど、しかし、人間の所作振舞
や言葉使いの中にその心をみることができる。
つまり「品性」とは「目でみることのできる心のかたち」だと思うのだ。
それでは「目に見える心のかたち」とは具体的にはいかなるものか、それが即ち「個性」ということになりはしないだろうか。
まわりくどい言い方をしたけれど、煎じ詰めれば品性とは「道徳的個性」に違いない。
人間とは本来、三つの根本的本性があるという。即ち、
一、先天的な本能である感性
二、後天的な知性
三、感性と知性が等しく磨かれることによって高めることのできる品性
これである。
この三つの「性」によって道徳的個性が形成されるというのだ。
道徳的個性を養うには、豊かな心を持つ、恥を知る心を持つ、感謝する心を持つ、等々いろいろな心が考えられるが、
私はまず当面のターゲットとして相手の気持ちを察する思いやりの心を養うことに専念することにした。
論語の中で高弟の子貢が、「生涯守り行うべき言葉は何か」と尋ねたのに対し、「恕
」と答えたという。
「恕」即ち相手の気持ちを察する思いやりの心なのだ。
百七歳まで生きた有名な彫刻家、平櫛田中は、「いまやらねば、いつできる、だれがする」という有名な言葉を残したが、
今年の年賀状に、私は、
「他はこれ吾にあらず
更に何れの時をか待たん」 (典座教訓)
と書いた。
さあお立ち合い!今年の暮れに私の品性が少しでも高まったと思ったらおなぐさみ。
我ながら少々自信はないが、とにかく今年一年一所懸命に努力してみる決心をした。
古希を迎えた一人の老人が何とか老醜を食い止めようと努力することは私自身にとって少しは価値があることと思うのだが。
(2000.1)