|
5. 寿 命
1999年10月26日、一人っ子の私が一番頼りにしていた義兄が癌のため、七十五年の生涯をとじた。
今から三年前、身体の変調を訴えて、ある大学病院に行った時には既に癌が全身を蝕んでいて、よくて三年の命だと医者
から宣告されてしまった。
しかし、ほどなく退院した義兄は傍目には健康な人と何ら変わりなく毎日会社に出ていたので、日進月歩の今日の医学
からして、二、三年のうちには癌の特効薬も見つかることだろうし、案外長生きするような気がして暢気にかまえていた。
暑かった夏もようやく終わり、秋風がたちはじめた十月の中頃、虫の知らせか何となく義兄のことが気になって家内と一緒に彼の白宅に見舞いに行った。
ベッドの背に上半身をもたせかけて、顔もとも普段と変わりなく、明日は入れ歯ができるので歯科医の処へ行くのだと言
いながら、それでも私に「修一君、この間、医者からカルテを見せられたが、そのカルテに赤鉛筆で寿命と書かれてしまったよ。
どうやら私もそう長くは生きられそうにないが、せめて皆の忙しくなる年の暮れと正月だけは避けたいものだ。
しかし、こればかりは私の思い通りにはいかないし、困ったものだ」と淡々と話してくれた。
そう言われてみれば、気のせいか癌患者特有のやや青黒い顔色はしていたが、それでも話し振りにも力があり、若干弱気
になってはいるが入れ歯もきちんと直して食欲も出てくれば案外元気に子供や大勢の孫達に囲まれて賑やかに正月を迎える
に違いないと家に帰った。
それから二日目の早朝、急に容態が悪化して救急車で病院に入院したという知らせが入り、その日の夜、大勢の孫達の
必死の祈りも空しく、ついに帰らぬ人となった。
知らせを聞いて家内と二人、病院に駆けつけたが、既に意識は無く、酸素吸入の助けを借りて辛うじて息をしている始末。
会社の主だった人達や親戚も駆けつけて広い病室も控えの応接間や廊下にまで見舞いの人達であふれていたが、病室には
看護婦一人付き添うでなく、勿論医者の姿等どこにも見えない。
もう何をしても無駄だというのか。いよいよ呼吸が乱れて、素人目にも危ないと感じた時、どこからか看護婦が現れて、
心臓の鼓動が画面に表示される機器を患者の枕元に運んできた。
それから、ものの十分もしないうちに、この機を待っていたかの如く当直の医師とおぼしき若い医者が一人現れて
「御臨終です」と一言、それで日本塗装工業界の重鎮も静かに人生の幕をとじた。
私もこの年になるまで何人もの死に立ち会ったが、こんな事務的な処置の仕方は初めてだ。
もう半日もない命だとわかっていたら、せめて看護婦の一人ぐらいそばにいて一時の気休めでもいい、家族の人達や
見舞客に病状の説明をしてほしかった。
これが末期癌患者に対する大病院の一般的な対応だというのなら、もし私が癌で死ぬようなことがあっても金輪際病院
では死んでやらない。
一緒に行った家内に、万一私が家で危篤になっても絶対に病院には連れて行くな、もし病院で何の処置もせず死ぬような
ことになったら、後で必ず化けて出るぞと脅かしておいた。
誰も逃れられない「老」「病」「死」とは知りながら、それでも親しい人の死は悲しく世の無常をひしひしと感じずには
いられない。
近頃の医者は病気を治すことは考えても、治らなかったらどうするかを真剣に考えようとはしないようだ。
口先では、インフォームド・コンセント(説明と同意)等と感顔した言葉をよく耳にするが、これは
「よく説明したのだから、おれの意見に同意しろ」ということに外ならない。
第一、カルテに「寿命」と書いて患者本人に見せる無神経さと驕りには呆れかえって怒る勇気も出ない。
寿命だからもう何をしても無駄だというのなら、末期癌患者を抱えている家族の人に予めよく事情を説明し、
患者も安楽に、また家族も患者に対して最善の方法を選んだという悲しみのうちにも諦めがつくような方法を、医師と患者
と家族の三者がよくよく話し合って決めるべきで、インフォームド・コンセントを説明と同意と釈して何の不都合も感じな
い医学関係者に反感をおぼえる。
「救急車で来るというから仕方なく入院させてやっただけだ」はないだろう。
第一、「寿命」と書いたその医者は寿命の本当の意味と重さを知っているのだろうか。
嘴
の黄色い若造の医者ごときに「寿命だ」等と軽々しく言われる筋合いはない。
しかし、その医者は恐らく「おれの見立ては正しかった」と密かに胸を張って同僚に自慢しているに違いない。
かつて「それが医者の勲章だ」と私に言った思い上がりの馬鹿医者がいたことを苦々しく思い出す。
「寿命」を辞書で引くと唯、命の間の長さとあるが、寿命と同じ意味で仏教には「定命」という言葉がある。
古代インドの思想では「人間の過去の業
『行為』に応じて、その人のこの世での生命の長さが定まる」と言う。
要するに人の生命は本人の意思の及ばないところで定まっているというのだ。
まして医者ごときに定められるものでは断じてない。
また、寿命について老子はこんなことを言っている。「死して亡びざる者の寿し」と。
死んだ義兄のように、その一生を妻や子供達を心から愛し、仕事一筋に生きた七十五年の歳月は、日本人の平均的寿命
には及ばないが、しかし、お家稼業の四代目として、引き継いだ事業をより立派なものにして子供達に残すのも、死して
亡びない立派な人生であり、それこそが真の長命ということができる。
禅僧が死ぬ問際に残す遺言のことを「遺偈」という。義兄が死ぬ三日前に私に言った「人様の迷惑にならぬ
ように、暮れと正月だけには死にたくない」といった言葉は、生前の彼の生きざまを如実に物語っていて心が痛む。
私も、かつて『馬耳束風」に「葬式」と題する拙文を掲載したことがあったが、その最後に「ただ一人の人間の死に
よって、その遺族や、わざわざ葬儀にお越し頂く人達の御迷惑になるようなことだけは、決してすべきではないと私は思う」と書いたことがあった。
立派な会社をその子孫に残し、「事終わらばすみやかに去るべし」と義兄の如く「独楽の舞い倒れ」よろしく私も生きたいものだ。
生きている時は全力を尽くして生きようとつとめ、死ぬ時もまた全力を尽くして「死」と対峙し、許されるなら、
自分自身納得して「素直な死」を迎えることができれば最高だと思う。
義兄の遺体は、その日のうちに白宅に帰り、私も無常感と何となく割り切れぬ思いで家路についた。
そして仏壇にお燈明をともし、「仏説阿弥陀経」を称え、義兄のために書きためた三十枚ほど
の「般若心経」の写経を取り出して出棺の折、そっとその枕元に置かせて頂いた。
大変に世話になった義兄のために、生きている私のできることは、結局それしかなかった。
合掌 (1998.12)
|
|