7. 根性と坊主頭

 今から約三十年前、私は全日本学生馬術連盟から推されて、社団法人・日本馬術連盟の理事になり、学生馬術界の代表 として学生馬術の発展のために大いにつくそうと意欲を燃やした時代があった。
 しかし、1964年の東京オリンピックの頃から、当時の学生馬術というより学生スポーツ全般のあり方について一つの疑問 をもつようになった。
 私が大学時代を過ごした昭和二十年後半の日本は、まだ敗戦後の混乱期で、国民は皆食べるのに精一杯で、とても スポーツ等に力を注ぐ余裕はなかった。
 その上、敗戦色が濃厚になってからの高校や大学の馬術部は、栄養失調の馬が一、二頭いればいい方で、到底乗馬練習 のできる状態ではなく、私達の上級生で満足に馬に乗れる人は数える程しかいなかった。
 従って、小学生の頃から馬に親しんでいた私などは、その技術は誠にお粗末であったにも拘わらず、全日本選手権や 国民体育大会では常に上位を占めることができた。
 そのように比較的恵まれた環境にあった極く少数の学生達は、私も含めて「日本馬術界の頂点に立った」という誇りと 自信をもって大学を卒業し、社会人になることができた。
 ところが、東京オリンピックの開催が決まり、日本中がスポーツに熱を入れるようになってくると、スポーツ全般の レベルは飛躍的に向上したが、反面、少ない学校の予算の中で購入するお粗末な馬(ひつ) で、しかも体育会OBという過去の 遺物の如き指導者のもとでの練習を強いられる学生達の技術は目に見えて低下し、全日本選手権等への出場は夢と消えた。
 従って、学生馬術は今後総ての競技に於いて勝ち負けにこだわることなく、あくまでも学生としての本分を(わきま) えた上で、 従順な馬という生き物を、部員全員で愛情をこめて飼育することに意義を見出し、むしろ馬を副読本として将来立派な 杜会人になることを主目的とすることが今後の正しい行き方だと考えるようになった。
 そしてこの「試合は二の次」とする考え方は、オリンピックを契機に総ての大学の運動部にも適用させる必要があった。
 元来、学校とはその語源を「孟子」に由来し、岩波書店の広辞苑によれば、
  一、知育  知的認識能力を高めることを目的とする教育
  一、徳育  道徳面の教育
  一、美育  美の鑑賞と創作の能力を養うことによって人格を向上させる教育
 そして、以上三つの教育を満足させるのにある程度の体力を必要とするところから「保健体育」が加えられた、即ち、
  一、体育 健全な身体の発展を促し、運動能力や健康で安全な生活を営む能力を育成し、人間性を豊かにすることを 目的とする教育、とある。
 故に、どこの大学でも運動部は○○大学体育会○○部というのが正式名称になっているはずである。
 そう思いこんだ私は、早速、「学生馬術の試合() の次論」を馬術連盟の理事会で発言したら、日ならずして理事を解任 させられてしまった。
 そしてまた、運の悪いことに、その頃日本女子バレーボールの監督が、「根性」という言葉を流行(はや) らせたため、各大学 の運動部は根性さえあれば総てが解決するかの如き錯覚に陥り、愚かにもその現象は今なお各大学の運動部の伝統として 受け継がれている。
 小学生の頃、身体の弱かった私は、母の勧めで、水泳を始め、六年生の夏、大森区(今の大田区は大森区と蒲田区の合併 による)の水泳大会で小学生の部の記録を出したことがあった。
 そのため、慶應の普通部に入学した途端に大学の水泳部のこわいお兄さんに無理やり水泳部に入れられ、まだ四月だと いうのに冷たく深いプールにたたきこまれた。
 そして、疲れて少しでもプールの縁につかまると容赦なく青竹で手をたたかれて定められた距離を泳がされた。 お陰で帰りに山手線の田町駅の階段を這うようにして上がったこともあった。
 「泳いで泳いで泳ぎきれば必ず理想的なフォームになる」
 「練習をどこの選手より多くやれば、絶対に他校には負けない」
 「体力の続く限り泳ぎこめば動きに無駄がなくなる」
 というのが当時の水泳部の根本思想になっていた。
 そこには大学本来の目的である知育・徳育・美育を支える体育の意義の片鱗すら窺うことはできない。
 結局、私は二ヶ月ほどで水泳部を退部したが、慶應の水泳部が全国制覇したという話は未だに聞いたことがない。
 先日、新聞の「スポーツ、スポーツ人」という企画特集で慶應の水泳部にいたという人が、「限界の先にあるもの」 と題して、前記の水泳部の根性論を紹介し、その論文の結論として、「スボーツ選手を指導する人達には疲れてなおその先 にある面白さと素晴らしさを語る義務がある」と書いていた。
 この言葉は、オリンピック選手やプロのスポーツ選手を指導する人達には当てはまっても一般大衆には決して通用しない 言葉である。
 大学の体育会の学生達に、その面白さと素晴らしさを語ったところでそれが一体何の役に立つというのだ。限界の先に あるものは「破壊」以外にないと私は思っているのに。
 まして馬の能力が大きなウェイトを占める馬術競技で、大学の馬術部が所有する能力の乏しい馬で優勝の美酒を味わわ せるのは、根性だけでは絶対に不可能である。
もう一つ、大学の運動部には「根性」と並んで困った伝統がある。
 それは、「試合に負けたら坊主になる」というものだ。坊主になったぐらいで敗戦の責任を帳消しにされてはたまった ものではない。
 どこかの野球の監督が選手の不祥事の貢任を感じて坊主になったといって頭をなでながら学生時代に戻った気分だと言い、 マスコミもまたこれでチームのムードが良くなるに違いない等と馬鹿なことを書いていた。
 昭和三十年頃の大学野球部の精神がいまだに抜けていないのかと呆れたが、そんな時代遅れの監督のもとでプレーをする 選手もとんだ災難だ。
 ついでに一言付け足すと、彼は恭順の意を表すために坊主頭になったつもりらしいが、坊主頭とは坊主のように髪を 剃った頭のことで、正しくは剃髪の頭を坊主頭といい、彼は唯頭を冷やす意味で髪を短くしたにすぎない。
 いずれにしてもスポーツは今やテレビの主役となり、有名選手は芸能界のタレント並みの扱いを受けるようになった。
 「大人になったら金を稼ぐために学校でスポーツをやるのだ」と豪語する子供達が増えていると聞くが、運動の合い間 に勉強をされたのでは学校本来の意義が薄れる。
 そんな子供達は速やかに学業を放棄してスポーツに専念させ、極限の美技を我々に観せてくれるほうが世の中のために なるというものだ。
 極く一握りの高校球児を英雄扱いするマスコミやその獲得のために多額の契約金を支払う球団は、その陰でいかに多く の学生が将来の進路を誤り、貴重な人生を台無しにしているかに思いを致すべきである。
因みに文部省には内部部局として大臣官房と六つの局があり、その六局とは初等中等教育・大学学術・社会教育・体育・ 文化・管理であると聞く。
 文部省は、あくまで勝負に拘泥(こうでい) するスポーツと、心身のリフレッシュを目的とするレクリエーションと、そして人間性 を豊かにすることを目的とする体育とを絶対に混同してはならない。
 まして「スポーツくじ」の胴元になる等、言語道断と一言わざるを得ない。
 そのようなことを考える輩は、どこかの監督のように是非髪を短くして頭を冷やす必要があると思うのだが。

(1998.10)