6. 仏前結婚

 1999年2月9日、私は久し振りに妻と二人、さも仲良さそうに新幹線の座席におさまった。
 生まれて初めて経験する仏前結婚式の仲人の大役を果たすためである。
 新郎は四百数十年の歴史をもつ和歌山の古刹、西山浄土宗無量山養徳寺の跡取り息子。
 本堂に安置まします由緒ある阿弥陀如来の前での挙式は、新郎の父(当寺の住職)の兄弟子、橋本随暢導師によって行われると言う。
 前年の暮れ、仲人の話が養徳寺からあった時、過去のいろいろな事情から、この仲人だけはどうしても引き受けねばと 思ったが、咄嗟に私の頭に浮かんだのは式の間中ずっと正座させられるのではないかという恐怖だった。
 坊さんの結婚式ともなれば、当然お経の一つや二つはつきものと考えねばならず、式が終わっていざ仲人の、新郎・新婦 の紹介をする段になって、はたして自分の足で立ちあがることができるだろうか、自慢じゃないが私にはまったくその自信がなかった。
 そこで式の間だけ、せめて床机でも使わせて頂けないかと厚かましくもお願いしたところ、先方でも多分挙式の進行上の 安全無事を考慮してのことだろう、快く承知してくれた。
 かくして余裕のできた仲人は当日モーニングに威儀を正し床机にどっかと腰掛けて式の一部始終を興味津々、細大もらさず 観察することとなった。
 さて、仏前結婚式なるものの感想といえば、クリスチャンでもないのに教会の牧師の前での空々しい誓いの言葉と違い、 一仏教徒として阿弥陀如来の前で唯ひたすらに良い夫婦でいられますようにと祈り、またこれからの二人を何卒お導き下さいと 願い続ける結婚式は日本人の結婚式に最もさわしいものとの確信を得た。
 参考までに仏前結婚式の式次第を紹介すると、


 結婚式差定
一、殿鐘 (一般列席者本堂入場)
一、入道場(新郎・新婦・仲人)
       (導師)
一、開式の辞
一、無言三拝、焼香(導師)
一、献灯・献香・献茶
一、心経
        導師護身法酒水
一、神力演大光の文
一、導師転向就壇説誠
一、三帰三竟(新郎・新婦三回復祢)
        帰依佛両足尊
        帰依法離欲尊
        帰依僧衆中尊
        帰依佛竟
        帰依法竟
        帰依僧竟
一、三聚浄戒授与
        摂津儀戒(悪事をなさじと祈る)
        摂善法戒(善事をなさんと祈る)
        饒益有情戒(人々に応分の利益を与えんと祈る)
一、行事焼香
一、寿珠授与、指輪交換
一、導師勤戒重訓

 これ以降もまだ延々と式は続き、もしも床机がなかったらとゾッとしたが、式自体は非常に厳粛で、どんな立派な葬式にも けっして引けはとらない良い雰囲気であった。
 こんな良い結婚式が何故一般化しないのか。ことある毎にお寺に集る風習のある和歌山の人達は、ひょっとして結婚式を よくお寺でやっているのかも知れないと、当日結婚式に出席した善男善女に聞いてみたが、やはりお寺での結婚式は僧籍 にある者だけだとのこと。
 かって、明治、大正時代の有名な教育者、新渡戸稲造がベルギーの著名な法学者、ラブレー氏に「日本に宗教教育がない」 という話しをした時にラブレー氏から「宗教がないとは、いったいあなたがたはどのようにして子孫に道徳教育を授けるのですか」 と質問されて、返す言葉がなかったという話しを思い出した。
 江戸時代、幕藩体制に組み込まれた仏教教団は、保護という名目のもとに仏教本来の活動ができなくなり、大名家の菩提寺 として財政的援助を受けたため、民衆救済の活動の場を奪われてしまった。
 その結果、わずかに先祖供養等の法要儀式の執行がその主な仕事となり、「葬式仏教」という言葉が定着し、仏教学は 栄えたが仏教そのものは衰退していったのだ。
 仏教とは「仏すなわち悟りの真理を説く教え」に外ならない。
 仏教に生きるとは、仏前結婚式にも組みこまれているように仏法僧の三宝に帰依し、転迷開悟を目指すものであり、仏教の 真の目的はいかにこの世を生きるかというもので、決して死者のためのものではないはずだ。
 幸い、お寺には鐘や木魚のほか、打楽器には事欠かないし、その上広い本堂もあり、何より阿弥陀様がおられるのだから、 住職が自信をもって「仏様の前で結婚式を挙げましょう」と大いに宣伝すべきなのだ。
 第一、僧侶が病院へ法衣姿で行くと、「そんな縁起でもない」「まだ生きているのに、早すぎる」と毛嫌いされ、僧侶 といえば葬式や法事等、人が死んだ後から縁ができるものというのが一般常識となり、僧侶自身もそれに甘んじているきらいがある。
 佛教関係の月刊誌「ナーム」に神宮寺の住職高橋卓志さんが、「現代社会の中で、とくに既成仏教が占める位置は〈いのちの現場〉 において、大衆から頼りにされないどころか、仏教者として振る舞うことすら許されない状態にまで追い込まれている」と書いていた。
 このままでは、お寺も僧侶も近い将来無用の長物になりかねない。
 弓削道鏡や平清盛入道、はては怪僧ラスプーチンの如く僧侶が政治に口を出すとろくなことはないが、脳死問題一つとってみても、 もう少し積極的な発言をして仏教の重要性を社会にアピールすべきだし、マスコミへの働きかけがタレント出身の瀬戸内寂聴 唯一人というのもあまりに情けない。
 せめて結婚式だけでも阿弥陀如来の前で挙げるよう、積極的に壇信徒の善男善女に自信をもって宣伝してもらいたいと思い、式の翌日 都ホテルでの披露宴の席上、仏前結婚式の功徳を力説して仲人の大役を無事終わることができた。

(1999.4)