7. いま、生命あるは難し

       『人に生まれるは難し
           いま、生命あるは難し』        (法句経182)

 米国大使館の裏にある妻の実家の菩提寺、正福寺で1998年10月3日、義父の十三回忌の法要を営み、その後東京会館で 会食をすることになった。
 法事か結婚式でもない限り、めったに顔を会わすことのない親戚も今回は珍しく多数出席してくれて、小さな孫達も 入れると総勢五十数名、大層賑やかな会となった。
 一人っ子の私と違い、妻は六人兄弟の末っ子で、彼女の上に四人の兄と一人の姉がいる。
 四人の義兄と同じテーブルを囲んだ私は、もともと親戚同士ということもあって、懐かしい昔話に花を咲かせ、楽しい一時を過ごしていた。
 宴会もそろそろ終わりに近づいた時、隣にいた長兄がその隣の三男に、そっと囁く声が耳に入った。『ところで、あんたは 何年ぐらいと言われたの?』、『さあ、はっきりと言わないけれど、あまり長くはないんじゃないかな』、 『それじゃ僕の方が先かもしれないな』
 この二人はともに医者から癌の宣告を受けていたのだ。
 日本人の四人に一人は癌だというから、六人も兄弟がいれば、そのうち二人が癌になっても不思議はないが、 よりによって何故この二人の義兄が。
 懐かしく、楽しい会話のあとだけに私は突然涙がこみあげてきて、咄嗟に顔を伏せて手で目を覆ったが、よほど不自然な 動作だったとみえて、孫が私の所へ飛んできてしまった。
 年のせいか最近涙腺のしまりが悪く、やたらと涙(もろ) くなり、よく孫に笑われることがある反面、自分の死に関しては 以外と無神経でいられるのは何故だろう。
 今から七年前、心臓病の悪化で手術しなければ生命の保障ははないと医者に宣告された時でも、意外と平静に受け止める ことができ、家への帰り道、一人車を運転しながら、どうやらこれでおれの人生も勝負あったなと、ぼんやり考えたことを覚えている。
 唯、成功率五十パーセントと言われた手術の、成功・失敗に関係なく、とにかく手術室に入る時までには自分なりに 納得した静かな気持ちでありたいと、それからの半年、宗教関係の本をいろいろと読みはしたけれど、別に悲愴感はなかった。
 唯、手術の日が近づくにつれて、成功率の高い人工弁にしてもらおうかと迷ったことは何度かあった。
 しかし、その都度成功率五十パーセントということは、半分は成功するということだ。私はすごく運の強い男だから 成功するにきまっていると、心の中で反芻(はんうう) したものだ。
 しかし、義兄達はともに何百人もの社員をかかえる会社のオーナー社長として、この不景気に一体どんな気持ちで毎日を 過ごしているのだろうか、二人の会話を聞いた瞬間、これらのことが頭に浮んで思わず不覚をとったというわけだ。
 私は毎朝NHKの『ラジオ深夜便』という番組の『心の時代』を午前四時から寝床の中で聞いているが、○○寺の住職等 という偉いお坊さんが異口同音に『心無罣礙(しんむーけいげ)  無故罣礙(むーけいげーこー)  無有恐怖(むーうーくーふー) 』と言う。
 恐怖心はこだわりの心から生まれるものだ、心にさまたげるものがなければ、恐れることは何もない、という意味で、

    焚くほどに 風が持てくる 落葉かな         良寛

 等と悟ったようにさらりと言うが、会社の将来、従業員や家族のことを考えた時、最高責任者として、そのような無責任な 割り切り方ができるものだろうか。
 現に私も十何年か前、会社の経営が行きづまり、このままではいずれ会社は倒産すると考え始めてから数ヶ月後、本当に 資金繰りがつかなくなった時には、夜も眠ることができず気が狂うのではないかと思ったことがあった。
 しかし、心臓手術のために麻酔をうたれる瞬間は、妙に観念して、執刀医にお愛想笑いをしただけだった。
 死の瞬間、人は走馬燈の如く一生の過ぎこし方が脳裏に浮かぶというが、そんなこと死んでみなければわからないし、 案外、生まれてくる時同様、何の感情も湧かないような気がする。
 今の若い人達と違い私は随分と身内の死の瞬間に立ち会ってきた。自分の死の瞬間はわからないが、やはり肉親の死は 考えただけでもやり切れない。
 妻の身内以外に一人の身寄りもない私にとって掛け替えのない二人の義兄、何としても長生きしてもらいたいと毎朝仏壇に 手を合わせ、時間をみては『般若心経』の写経をしているが今の私にできることはそれ以外に何もない。

合掌   (1999.6)


(この二人の義兄には口には言えぬ程の恩を受けたが、残念なことに長兄は1999年10月26日死去、行年七十五歳。
 しかし、私と同年の三男は非常に元気で毎日会社に出勤している)