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3. 妻の勲章
神戸の三木市にかねてから日本中央競馬会が関係する馬術競技の総合施設(165ヘクタール)を建設中であったが、
1997年の春、その施設のモニュメントとして八頭の馬の銅像を創らせて頂くことになった。
従って、その打ち合わせのために現地に行く機会が多くなったが、私の育ての母の実家は兵庫県の隣の岡山で今でも
義理の従兄弟達が多勢住んでいる。
養母の実家は代々、西大寺鉄道という鉄道会社を経営していて、現在でも両備バスとか岡山電気軌道等という交通関係の
事業をお家稼業としている。
せっかく神戸迄行くのだから、たまには岡山の従兄弟達に会って、鷲羽山で瀬戸内海の夕日を肴に美味しい酒でも
飲みたいものと三木の帰りに岡山迄足を伸ばした。
実のところ岡山には伯父の葬儀の時以来、行ったことがなく、私を可愛がってくれた伯父夫婦のお墓参りもしておらず、
何となく申し訳のない気がしていたので、何はともあれお線香を供えさせて頂こうと仏間に入った。
見覚えのある明治天皇の御親筆や良寛の書が懸かっている仏間の壁に、もう一つ伯父の額が目についた。
何気なく読んでみると、
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大正九年三月三十一日結婚後
光蔭実に矢の如く既に五十九年
を経過せり顧り見るに松田家
の今日あるは偏に君の内助の功
によるもの大なるものあり茲に深き
敬意と感謝の誠を表する者なり
昭和五十四年三月三十一日結婚記念日
松田壮三郎
八十四歳翁
松田津由子どの
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とあった。
生前、伯父がその家族に書き残した小冊子「忘れな草」によれば、
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「大正九年三月慶應義塾大学理財科卒業(現在の経済学部)、三井銀行に入社した。
三井銀行への入社については、故枢密顧問官小松原英太郎先生、三井合名有賀専務理事、三井銀行米山常務取締役
三氏の容易ならざる御世話によるもので其の御高恩はいまだに寸時も忘れたことはない、同年三月三十一日結婚したが、
新婚旅行は先方の両親と一緒で京都、伊勢、名古屋、東京と一週間程でこれはまた大変窮屈であったが、又忘れ難いものであった。」
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と書かれている。
いかに大正の時代とはいえ、大変な新婚旅行もあったものだ。
因みに、その時新婚旅行に同行した夫婦は現在の私の妻の祖父母になるのだが、幸いなことに私の新婚旅行には妻の
両親はついてこなかった。
昭和五十八年その伯母が八十三歳でこの世を去る迄、伯父の愛妻ぶりは傍目にもほほえましく、伯母がいなければ何事も
始まらなかったように記憶しているが、まさか結婚記念日に感謝状を贈っていたとは思わなかった。
岡山が生んだ漂泊の叙情天才画家、竹久夢二描くところの美人画によく似た伯母は、たしかに愛情深く多くの人に敬慕され、
内助の功も抜群であったのだろう。
明治の詩人、与謝野鉄幹の「人を恋ふる歌」ではないが、「妻をめとらば才長けて、みめうるわしく情ある」だったに違いない。
六十三年間連れ添った最愛の妻に先立たれた翌年、私は社用で岡山に出張したことがあった。たまたま伯父が会長をしている
岡山電気軌道株式会社の本社の前を通ったので、勝手知ったる会社のこと、案内もなしに会長室に入ったことがあった。
耳の遠かった伯父は、ノックの音も扉の開く音も聞こえなかったのだろう。伯父はその時、会長室の大きな机の前に座って
机の下で何やら両手を動かしていた。
何気なく近づいて見ると、恐らく伯母の形見なのだろう大きなダイヤモンドのエンゲージリングを自分の小指にはめて、
その指輪を優しく撫でていた。
見てはならないものを見てしまったような気がした瞬間、私に気がついた伯父は、その指輪をそっと抜いて、
机の引き出しにしまってしまった。
愛妻の形見の指輪を撫でながら伯父の胸に去来していたものは何だったのだろうか。神ならぬ身の知るよしもないが、
「愛するということは、お互いが見つめあうことではない。一緒に同じ方向を見つめることだ」と言ったひとがいた。
敬愛する妻を偲び、妻と二人で過ごした懐かしい思い出を改めて噛みしめながら、あと何年かして二人で過ごす
楽しい天国の事を考えていたのかも知れない。
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昭和四十年 勲三等瑞宝章
昭和四十四年 岡山市名誉市民
昭和五十四年 勲三等旭日中綬章
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を授与された伯父も、その栄誉の半分は間違いなく愛妻、津由子のものだと思っていたことだろう。
そして六十年目の結婚記念日に夫から贈られたこの感謝状は、まさしく妻としての大勲位菊花大綬章以上の価値があると、
その妻は有り難く思っていたに違いない。
津由子伯母万歳
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尊敬ということがなければ
真の恋愛はけっして成り立たない。 (フィヒテ)
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(1998.9)
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