MODE ACTUEL MODE ACTUELLE
HHJ
PKO
■自衛隊のPKO(国連平和維持活動)への参加が決まった。SELF DEFENSE ARMYが、自分を守るだけでなく、晴れて国際社会の平和に貢献できるようになったのだ。自衛隊が憲法第9条に違反しているのは明白であるにもかかわらず、武力を行使さえしなければ海外に派遣しても構わない、というわけである。 明白かどうか分からないという人は、憲法前文と第9条を読んでみよう。 〈日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。〉したがって、〈国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。〉【第9条@】 歴史的な文書・文献は、それが作られた背景(歴史的文脈)に置いて解釈しなければいけない。進駐軍の総司令部GHQは、日本政府に憲法の作成を任せた。が、出来上がった松本(烝治)案は民主主義からほど遠く、主権が国民でなくて依然として天皇にあった。軍国主義を引き起こした旧帝国憲法と大して変わるところがない。それで、マッカーサーが民政局に草案を作らせた〔1〕。民政局長だったケーディスは、当時を回想して、日本は軍隊を持つことができない、とはっきり言っている〔2〕。国民も、その崇高な理念を信じていた。 しかし、冷戦という国際情勢は、それを許さなかった。朝鮮戦争が勃発すると、マッカーサーは、自衛隊の前身である警察予備隊の創設を日本政府に命じた。〈平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して〉などという美しい理想主義では、安全どころか生存も困難なのだ。しかし、侵略の脅威は全然なかった。それが事実であるかのように折りにつけ危機感を煽ったのは、経済的利益と保守主義者の〈安全と生存〉のために他ならない。本当に国民のためを思うなら、むしろイデオロギーを越えて相互交流することで、好ましい関係を築く努力をしたはずだろう。好ましい関係とは、人間にも当て嵌まるが、互いに自立した存在であって、しかも、相手がなければ良く生きられないような相互依存的な関係である。 ■ ■ ■ HHJ VOL.8 1992.7 MODE ACTUEL MODE ACTUELLE 1
GHQ ; 竹前栄治 岩波新書 2
これは確かNHKの番組の中でだった。 チャールズ・L・ケーディス
Charls L. Kades 1906〜1996 弁護士。1945年、日本降伏直後にGHQ民政局次長兼同局行政課長に就任。憲法改正作業に際しては、GHQ草案起草委員会運営委員として草案起草や日本政府との折衝に中心的役割を果たした。現行憲法の象徴天皇制や、第9条の発案にも深く関与した。 [以上page.freett.com/japanesehistoryより] 財閥解体をはじめ多くの民主的改革推進の中心的人物だった。それゆえに、参謀第2部長・民間諜報部長のウィロビー(Charles Wiloughby)から徹底的にマークされ、鳥尾子爵夫人との関係などを理由に49年5月失脚させられた。 [以上〈GHQ〉より] ケーディス追放の舞台裏を見る ▼ 〈カレンダーのある事件 1〉を修正するためのミーティング それと関連する記事シリーズ |
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2014.1.7 昭和天皇の戦犯問題; 歴史を正しく理解させないNHKの不公平さ ☆ 半分半分放送局長―歴史を正しく理解しないと、恐ろしいことになるよ、な? 特派員―そのとおりですね。極東委員会やアメリカ、ソ連、オーストラリアの世論は、天皇処刑論が強かった。アメリカ上院では天皇を戦犯裁判にかける決議が成立した。しかし、マッカーサーは偉い人ですよ。昭和天皇が極東軍事裁判で処刑されたら、連合国は取り返しがつかない過ちを犯していた。 放送局長―昭和天皇の責任を問わないで天皇制を残すためには、帝国時代の特権を廃止するしかなかった。つまり、象徴天皇だ。しかし、天皇を戦犯に仕立てようとねらっていた組織があったな。陸軍幕府の悪党だ。隠れて外国の世論を誘導していたと思うね。 アロマ―いい例が親電工作よ。アメリカのルーズヴェルト大統領が戦争回避の最後の手段として昭和天皇に送った親書。それを天皇は〈黙殺〉した、というフィクションをつくった。NHKドラマ《マリコ》も、同じフィクションの疑いがある。 特派員―まだNHKアーカイブスで確認してないの? アロマ―アクセスしたら、ドラマの最初だけ3分ほどで終わり。 放送局長―国民の財産だよ。インターネットで過疎地の人も見れるようにするべきだ。 アロマ―そうよ。秋田放送局まで行かなければならないなんて、ね。 放送局長―しかし、問題は天皇主権のジレンマだな。ずるい悪党が徹底的に利用できる仕掛けなら、主権は国民が持ったほうがいいよ。その視点から天皇と皇族の権利と権限を定める。 ☆ ▼ List 1 高松宮日記メモ; 高松宮は国民主権に反対した ■■■■■■■GHQ
第4章
戦後改革とGHQ 2 憲法とGHQ 草案 …(略)… 日本国憲法の起草は、GHQの示唆によって、近衛文麿と憲法問題調査委員会(松本蒸治国務相が長)の二本立てで進められた。また日本共産党や日本自由党などの政党、憲法研究会や憲法懇談会などの私擬憲法草案も続々とあらわれた。とくに共産党案は、共和制を採用している点が注目された。 松本(憲法問題調査委員会)案が、一九四六年二月一日、毎日新聞にスクープされた。その内容は主権在君のままの古色蒼然としたものであった。民政局は、同年一月一七日の極東委員会訪日使節団との会見と、このスクープで明らかにされた内容がきっかけとなって、GHQ草案作成の可能性を検討し、マッカーサーに進言した。マッカーサーは二月三日、いわゆる「憲法 起草に関するマッカーサー・ノート」を示して、民政局にGHQ草案の起草を命じた。このノートには次の三原則が示されていた。 @天皇制存置(立憲君主制) A戦争(自衛戦争を含む)放棄と戦力不保持・交戦権の否認 B封建制度の廃止と貴族制の改革 二月四日から一〇日の一週間に、民政局は他の部局にも内密にGHQ草案の起草を完了して、マッカーサーに提出した。起草の中心になった人物は、ケーディス、ハッシー、ラウエルの三人であった。彼らは、合衆国憲法、ワイマール憲法、フランス憲法などの欧米諸国憲法をはじめ、
日本の憲法研究会草案などを参照して、世界のモデル憲法にすることをめざした。 ホイットニー発言 二月一三日、GHQ代表として民政局長ホイットニー〔1〕、ケーデイス、ハッシーとラウエル、日本政府代表として外相吉田茂、国務相松本蒸治、終戦連路中央事務局次長自洲次郎が、外相官邸のサンルームに会した。その席上、日本側は松本案を提示した。しかし、GHQ側はそれを拒否し、用意してきたGHQ案を手交した。このときの会議が「押しつけ憲法論」 の一因となるのであるが、しかし、会議の発言を検討してみると、必ずしもそうはいえない。ホイットニーは次のように発言している。 「最高司令官は、日本政府およびあなた方の党にこの憲法(草案)を提示し、もしよろしければ、これを採用し、最高司令官が全面的に支持しているものとして日本国民に提示してもよい、しかし、あなた方にこれ(採用・国民への提示−筆者注)を要求してはならないと私に指示されました」 さらに、このGHQ草案を採用してほしい理由として、次の諸点をあげた。 @GHQ、とくにマッカーサー元帥は、天皇制存置と天皇を戦犯に引き出さないことを強く望んでいるが、極東委員会やアメリカをはじめソ連、オーストラリアの世論は、天皇処刑論を主張しており、したがって、この憲法草案に盛り込まれている程度の国体変革、戦争放棄、人権専重などの諸原則を受け容れなければ、天皇制存置も天皇を戦犯裁判にかけないようにすることも困難である〔2〕。 Aこの憲法草案が受け容れられれば、連合国の人権保障の要求を満足させ、日本国民にそれを享受させ、また世界の道義的リーダーシップを取る機会を与えることにもなる。 Gもしこの憲法草案を拒否すれば、GHQは直接国民に、この憲法草案に盛られた諸原則を提示し、国民に選択を求めることができるし、そうすれば現政府は面目を失墜するであろう。その代りにこの憲法草案を受け容れれば、最高司令官は現政府の立場を支持することを期待してもよい。 賢明な選択 この会議の模様からみると、GHQ側は、強制したというよりは、受諾しない場合におこりうる可能性について注意を喚起し、受諾を勧告したといえよう。それは、銃剣の下で受諾を迫ったり、マホメットの「コーランか剣か」式のやり方で押しつけたのではなかった。日本政府側が国内の世論や情勢、国際世論、何よりも自分たちの政権を維持しうる保障を考慮して、不本意ながらも自主的に受諾したというのが歴史的事実である。それはある意味で賢明な選択であった。もし、当時の日本国民が、起草者の名を隠されて松本案とGHQの二案を示され、自由に選べといわれたとしたら、どちらを選択しただろうか。GHQ案を選んだのではあるまいか。 一方、アメリカのギャラップ調査でも、天皇処刑論が三〇パーセントを越しており、アメリカ上院でも「天皇を戦犯裁判に付せよ」という合同決議がなされていた。またソ連やオーストラリアも天皇戦犯論を強く主張していたので、極東委員会で天皇制や天皇戦犯問題をどう処理するかは全く見とおしがついていなかった〔3〕。…(略)… □ □ □ 1
コートニー・ホイットニー Courtney Whitney 1891〜1969 アメリカ陸軍准将。フィリピンで弁護士を開業中、マッカーサーと親交を持ち、1940年軍役に復帰。45年8月、マッカーサーとともに日本に進駐し、同年12月GHQ民政局長に就任する。51年、マッカーサーが総司令官から解任されると、マッカーサーとともに離日した。 [以上page.freett.com/japanesehistoryより] 初期の民主化政策の推進を図り、吉田茂や日本政府から恐れられたが、タカ派のヒトラー崇拝者ウィロビーからも敬遠された。 [以上〈GHQ〉より] 2 極東委員会(FEC) 1945年12月27日モスクワでの3国アメリカ・イギリス・ソ連外相会議で設立が決定した。任務は、ポツダム宣言が規定する降伏条項の実施について、軍事・領土問題を除き、その政策と原則の作成、連合国最高司令官の政策実施の見直しなどとされ、アメリカ政府は極東委員会の決定を指令としてGHQに送付する義務を負った。構成国は、その他に中国、フランス、インド、オランダ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、フィリッピン。1949年にビルマ、パキスタンも参加した。 [以上〈GHQ〉より] 3 マッカーサー・ノートやホイットニーの提案に関する参考文献は、個別に記載されていない。 US.Dept.of State, Foreign Relations of the United States(1944-1951) その他 ケーディス追放の舞台裏を見る ▼ 〈カレンダーのある事件 1〉を修正するためのミーティング それと関連する記事シリーズ |
Weblog CAT WILLOW Updated 2007.5.5 マッカーサー憲法の原案から草案まで ☆日本人の大多数は、マッカーサーが民主憲法の原案を書いたとは思っていない。GHQ民政局のケーディス(Charls L. Kades)がマッカーサー総司令官の指示を受けて民主憲法づくりを指揮した、というのが常識だろう。誤解されるような常識を平気で根づかせたのは保守政府とNHKその他のジャーナリズムである。 マンチェスターが書いた伝記によれば、連合軍総司令官(SCAP)は東条英機時代に選ばれた頭の古い国会議員を民主主義に反して命令で解散させるより新しい憲法を承認するための国民投票となる総選挙で国民の意思を問うことが必要不可欠だと考えた〔1〕。日本国民が民主憲法を喜んで受け入れることが分かれば、極東委員会が厳しい占領政策の要求を止めるはずである。これはGHQを悩ませていた。 マッカーサーは、理想的な憲法は自分で主要な条項を書くしかないと判断した。そして、休日に諸国の民主憲法を全部読んだ。1946年の2月、原案が完成した。回想記は、こう書き記す。〈それは、多くの国の憲法の最良の部分を取り入れた、疑いもなく史上最も自由主義的な憲法である。〉〔2〕 この原案マッカーサー・ノートは、民政局に渡された。 ☆ NHKオンライン 5月3日 11時51分 〈憲法が施行されてから3日で60年がたちました。憲法の原本や草案など、制定の過程を示す貴重な資料が、3日から東京の国立公文書館で一般に公開されています。〉 ☆ 1 American Caesar :Douglas
MacArthur
by
William Manchester
1978 2 Douglas MacArthur;
Duty,Honor,Country
1962 マッカーサー回想記 p p p Updated
2007.5.7 マッカーサー憲法の原案と草案の違い ☆マッカーサー・ノートは実際どんな内容だったか? @天皇制存置(立憲君主制) A戦争(自衛戦争を含む)放棄と戦力不保持・交戦権の否認 B封建制度の廃止と貴族制の改革 〈GHQ〉の著者はその3項目をあげるが、その規定から新憲法が作られるとは思えない〔1〕。たとえば、天皇の象徴性。マンチェスターによれば、最初の覚書は4項目である。しかし、その内容は直接明らかにされないで、民政局が完成した新憲法の条項について話を進める。 憲法が成立するプロセスを正確に知りたいと思うものは、そこで苛々させられる。マッカーサー・ノートは非公開ではないのだから、国会とNHKなどが国民に代わって積極的に調査報告するべきだろう。国立公文書館で展示したり公正な番組で認識を高めるべきだろう。そうしなければ、憲法に関して世論操作を目的にした歪曲が行なわれてきたのじゃないか、という疑惑が燃え広がり、国家は完全に信頼を失って藪の中でデッドエンドである。 ☆ 1 GHQ ;
竹前栄治 ケーディス追放の舞台裏を見る ▼ 〈カレンダーのある事件 1〉を修正するためのミーティング それと関連する記事シリーズ |
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Half and Half