山崎 竹   慶応2年(1866)2月15日〜明治41年(1908)6月10日
 明治期の婦人運動家。

<生い立ち>
 高知藩の重臣深尾家の侍医・山崎立生と鹿の二女として、現在の佐川町に生まれた。竹の祖父は町医者であったが、紀州の華岡青洲に外科を学んで帰郷したのちに、領主の深尾家の典医に抜擢された。父の立生も長崎に留学して蘭医・ボードウィンに学んだ。

 竹の生まれた慶応2年は、坂本竜馬の斡旋によって木戸孝允、西郷隆盛が薩長同盟を結んだ年であり、翌年は山内容堂が幕府に大政奉還を進言するなど幕末の動乱の時期であった。

 竹の青春時代は、西欧文明が洪水のように押し寄せてきた時勢であったが、竹が過ごした高知女子師範学校には、そうした西洋文明はまだ届いていなかったのか、指導者が避けたのか無縁な教育を終えた。

<結婚>
 竹は明治15年(1882)高知女子師範学校を主席で卒業後、教師として城下の追手筋小学校や下知小学校で教師をした。
 在学中か卒業直後あたりに、父・立生の門弟でのちに歯科医になった織田信福と結婚した。結婚式当日、花嫁の竹の姿が見当たらず、大騒ぎをして探し回ったところ、竹は押入れのなかで眠っていた、というエピソードがある。

 夫の信福は、万延元年(1860)に宿毛の武士の家庭に生まれた。
 山崎立生・岡村景楼・楠正興は、当時の高知城下の三名医とうたわれていた。彼らは医学校「鼎立義塾」を創立した。その医学校に、信福は学んでいた。ところが、立生が、明治14年(1881)に病死したため人生計画に狂いが生じ、失意の余りか一時期放蕩に陥った。そのため信福の母が先祖伝来の短刀を持ち出して自害をせまった。困惑した信福は横に座っていた竹にとりなしてもらおうと思ったところ、竹は「母は私が養いますから、あとのことは心配しなさるな」と、意外な対応だった。この返答に閉口した信福は、改心発奮して上京し、明治18年3月31日付の「歯科医術開業試験及第之証」を取得して帰郷し、開業した。

 夫の信福は過激派民権家だった。診療室で爆弾つくりをやって失敗し、天井を打ち抜き大やけどをしたり、三大事件には手製の爆弾をもって上京した。ただし、突然の保安条例によって東京から追われる身となった。政府高官に投げつける予定の爆弾を帰途の船上から琵琶湖に捨てた。

 竹の生まれた環境は自由民権運動の盛んな時期であり、父親も関わっていたが、結婚して過激派の夫から政治的影響力を受け、また植木枝盛との出会いにより、女権拡張運動に参加する活動家になった。

 植木枝盛は、明治17年に高知に戻って、高知滞在中の4年ほどの間に『土陽新聞』紙上に連日のように家庭、婦人、教育などの問題を取り上げ、高知の女性たちへの影響は大きかった。女性問題に関する新聞記事に啓発されていた竹は強い感銘を受け、明治20年に桜馬場の植木枝盛の家を訪問した。そして、しばしば植木邸で、枝盛から直接指導を受けた。同じく富永らくも植木枝盛宅に親しく通ったので、出会いがあったのであろうか。

<「婦人交際会」発足>
 明治20年(1887)3月1日、婦人交際会が高知における最初の婦人会として発足した。片岡健吉の妻・美遊、山田平左衛門の妻・のぶ、坂本直寛の妻・つるゐ、そして竹たち自由民権家夫人たちが、自由民権家植木枝盛の指導を受けて発足させた。

 片岡健吉坂本直寛は明治18年5月15日に宣教師ノックすから、山田平左衛門は6月28日にミラー宣教師から受洗して現在の日本基督教団高知教会の創立期の教会員である。ミラー宣教師の妻は、現在のフェリス女学院を開設したミス・キダーである。竹の夫も高知教会員である。

 植木枝盛の婦人に対する呼びかけを一番よく理解し、しかも実践に移したのが山崎竹、と言われている。
 竹は、明治20年12月26日の保安条例によって東京から追われた土佐の民権家たちが帰宅して間ない2月22日の『土陽新聞』に、「婦女の急務」と題して、政府がたくらんでいる屈辱的条約の締結を阻止するために男子が一命を擲って運動しているのに、女子が化粧と音楽と舞踏に現を抜かしていることを嘆き、婦人に政治活動に目覚めるように投書をした。

 竹の投書に対して『東雲新聞』に「今様の婦人に一言す」と題して土佐吸江女史から”婦人が男子の抑圧を脱して女権伸張を図る方法として婦人会を結成して活動しているが、その結成や運営に男子の力を借りる状態は矛盾している”と。ところが、竹は土佐幽竹女史の筆名で同紙に男尊女卑の弊風を正していくためには男女相共に団結通同して正道真理を拡張すべしで、これが最大の急務である、と吸江女史の誤りを糾弾したのであった。

 明治21年5月11日、竹らによって高知県婦人会が結成された。竹は発足した高知婦人会幹部として活躍した。また、「婦人解放論」「廃娼論」「婦人参政権論」を執筆したり、新聞に掲載したり演説したりした。

 だが、やがて天皇制国家主義の台頭とともに竹は侵略戦争に積極的に協力する身となった。明治36年愛国婦人会高知支部幹事、38年帝国義勇艦隊建設高知県婦人部高知市委員として尽力した。無論、こうしたことは竹ひとりではなく、片岡健吉の妻・美遊をはじめとして、かつての民権家の妻女たちが同じ道を歩んだ。精神的よりどころとなっていた高知教会牧師・多田素もその先頭に立った。

 のち、キリスト教に入信して、高知教会日曜学校の教師をつとめた。
 
 竹は、長い間子どもに恵まれなかったが、あるとき夫が旅先から突然女児を連れ帰ってきた。その後、竹は女児を生んだ。そして、明治41年6月10日、姑、夫、そして16歳の養女、10歳の実子を残して42歳で病死した。
出 典 『女性人名』 『高知県婦人解放運動史』 『植木枝盛と女たち』

時代を駆ける女たち http://www.sole-kochi.or.jp/jyoho/play/place1/bae00s3.htm
扉を開けた女たち  http://www.sole-kochi.or.jp/jyoho/info/sk/vol_4/sk_j.html
日本基督教団高知教会 http://www.geocities.jp/kochi_church/index.htm