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 富永 らく            慶応2年(1866)9月8日〜昭和13年(1938)11月6日
 明治期の婦人運動家。

<生い立ち> 
 戸籍名は駱。板垣退助が命名したとのことだが、本人は”楽”とし、また湖姻女史を名乗った。湖姻は、「中島湘姻」にあやかったのであろう。六花女史とも名乗った。これは中江兆民の命名と言われている。

 土佐郡江ノ口村田淵(現・高知市)で、医師である父・富永安孝(保孝)と母・浜田里の長女として生まれた。

<20歳で助産婦開業> 
 明治6年、高知の共立学舎英語学校女子席に在籍した。その後、助産婦の勉強をして助産婦の資格を取得した。20歳だった。その年の19年(1886)5月13日の『土陽新聞』に産婆開業の広告を出し、助産婦を開業した。高知における職業婦人の草分けであり、技術を身につけて経済的に自立しようとした姿勢がうかがわれる。

<演説> 
 同年6月9日、高知で開催された「通俗衛生演説会」で演説をした。これは県下における女子演説のもっとも早いものであったといわれている。これを契機として婦人運動家として活動を始め、これまで文章を通じてしか知らなかった植木枝盛と出会い親交を深めた。『植木枝盛日記』にらくのなまえが登場するのは明治20年1月1日のことである。らくが、桜馬場の植木枝盛宅を訪問して親しく教えを受けたのだった。このころから植木枝盛とらくの交流は親密な間柄となった。山崎竹もまた同じころ植木枝盛の家を訪ねている。植木枝盛宅での出会いがあったのだろうか。

 らくは自由民権運動に参加し、高知の民権派女性たちの「婦人交際会」にも参加した。婦人交際会は、明治20年(1887)3月1日、坂本直寛宅で発足した高知で最初の女性組織である。のちに女子興風会と改称したこの会を、植木枝盛坂本直寛、山本正心ら民権家が指導した。らくは、3月8日には自宅で婦人交際会を開催したが、そこに植木枝盛が出席した。自宅を会の宿に提供もした。

 やがて、らくは同20年12月4日香川県高松で開催された「玉藻女子懇親会」の会主をつとめ、参加した会員59名を前にして開会の主旨を述べ、併せて女子交際の必要を論じ大いに拍手喝采を博した。

<新聞記者>
 21年(1888)、上阪して中江兆民が発行・主筆の『東雲新聞』の記者としてつとめることとなった。同じころ、兆民の書生に住み込んでいた幸徳秋水とも親交があったともいわれている。やがて、新設の産婆教授所教師に招かれたために高知に戻ったが、その間、植木枝盛とはしばしば会っていた。
 22年出版された植木枝盛の『東洋之婦女』に序文を寄せた。福田英子清水紫琴とも交流があった。
 その年の1月6日に清水紫琴が京都から大阪に来たとき、植木枝盛は、その翌日、らくと清水紫琴を伴って中江兆民を訪ね、8日には高麗橋中村で石田たか、植木枝盛そして清水紫琴と4人一緒の写真を撮った。

<結婚> 
 同じ22年、明治村(現・土佐山田町)の民権派医師・源頼紀と結婚した。翌23年、夫が相川の私立病院長に招かれたため夫に伴って土佐郡森村(現・土佐町)へ移転し、らくは、このころから婦人運動から遠ざかり、森村尋常小学校で教師を務めた。

<キリスト教入信> 
 25年、夫が弘仙銀山病院へ赴任したが、その移転先の但馬で家族とともにキリスト教に入信した。男児が誕生したが、夫と死別した。

 夫と死別後、子どもを育てるために上京して看護婦や助産婦として働き、生活を支えた。報知新聞社に入社し、「六花」の号で執筆活動をした。幸徳秋水が『萬朝報』在職中には、本郷菊坂に隣り合わせに住み、同郷人のよしみで親交を結んだという。

 39年『革命評論』に「本郷六花女史」の名で投書し、当時の女性たちの意気地なさを憂いた。のち、兵庫県に在住し、神戸で賀川豊彦とともに働いていた時期がある。後年「土佐婦人会」の慈善事業にかかわりもした。

 高知市で73歳で死没。
出 典 『植木枝盛と女たち』 『女性人名』

植木枝盛をめぐる進歩的女性 富永らく http://www3.netwave.or.jp/~go-kumon/tominagaraku.htm
時代を駆ける女たち http://www.sole-kochi.or.jp/jyoho/play/place1/bbe10s3.htm

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