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 瓜生 繁子   文久2年(1862)3月20日〜昭和3年(1928)11月3日
 明治期の教育者。

<生い立ち> 
 佐渡奉行属役益田孝義の四女として、江戸本郷猿飴横町に生まれた。
 5歳で幕府軍医永井久太郎(玄栄)の養女となり、慶応4年(1868)3月養父とともに沼津に移住した。

<海外留学> 
 実兄孝が米国公使館詰だった関係で開拓使留学生に応募の機会を得た。
 明治4年(1871)11月3日、10歳の繁子は津田梅子、吉益亮子、上田貞子、山川捨松らと岩倉使節団に従い米国の首府ワシントンに渡った。

 市内フェァーヘーヴンのジョン・アボット家に預けられ、ヴァッサー・カレッジで音楽を学んだ。同14年帰国命令が届き、勉学の途中であったが、病気がちだったので同年秋に帰国して文部省音楽取調掛教授となった。

 一年遅れの明治15年(1882)11月に津田梅子や大山捨松が帰国した知らせで、繁子の家で三人が一夜を過ごして旧交を温めた。繁子が梅子に着物を着せてあげたり、いろいろ日本の事情やエチケットなどを親切に教えてあげた。11年間、しかも7歳程度でアメリカで過ごした梅子にとっては非常にありがたい親切で、心から感謝した。

<結婚> 
 同15年(1882)繁子は海軍軍人瓜生外吉(日露戦争時の第三艦隊司令長官、のち海軍大尉)と結婚した。20歳であった。この出来事を津田梅子は、息が止まるかと思うほどびっくりしたニュースとしてアメリカの知人あての手紙にしたためた。

 夫外吉は、宣教師カロザルスが建てた築地大学校で学んだ。そこには田村直臣原胤昭、戸川安宅、尾崎行雄らの名がある。外吉は、カロザルスから受洗し、婦人伝道者となった出口せいや田村直臣らとともに東京第一長老教会建設に携わった。

<ピアノ教師> 
 繁子は、結婚後もピアノ教師として多くの弟子を育成して音楽教育に重きをなした。繁子が日本でいち早く正式にピアノを習い、それを弟子に教授した女流音楽家であろう。

 明治25年(1892)3月の読売新聞社の和洋婦人音楽家の人気投票で、幸田延の307点に次いで、繁子は288点を得ていることから推しても繁子の当時の名声が高かったことをうかがい知ることができる。

 19年(1886)10月には東京女子高等師範学校兼東京音楽学校教員をつとめた。23年に教諭となり、のち教授となった。幸田延が入学したときのピアノの先生が繁子であった。退官後に従6位を贈られた。

 67歳で死去。
出 典 『女性人名』 『音楽』 『津田梅子』 『明治学院百年史』