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 出口 せい           天保14年(1843)ごろ〜明治44年(1911)
 婦人伝道者。

 一橋家臣本多家の娘。のちタカと改名。彰義隊頭取本多晋は、実弟である。序ながら日本公園の父と言われた本多(折原)靜六の妻は晋の娘・詮子である。

 せいは、出口家に嫁いだものの夫とは死別した。
 30歳を過ぎた明治5年(1872)、築地居留地のアメリカ長老教会宣教師カラゾルス,C.夫妻を頼り、求道生活を始めた。

 和漢の素養があったことから、カラゾルス夫人が開設したA6番女学校で教えた。封建的な家制度とキリスト教信仰の間で苦悩する女生徒たちの指導者として大きな影響を与え、多くの信徒を育てた。

 明治7年、カラゾルスから受洗した。千村五郎戸田欽堂原胤昭田村直臣らとともに東京第一長老教会を設立した。この設立にはやや遅れて受洗した瓜生外吉もいた。
 やがてカラゾルスの辞任を契機に外国教会の支配を配して自主独立を標榜する日本独立長老教会を前述の教会員とともに銀座に創設した。このときに派遣されてきたトゥルー,M.T.夫人の協力者となって明治12年(1879)に北陸に同道して約2年間で金沢宣教の基礎を据えた。

 四ツ谷鮫ケ橋のスラムでも献身的な奉仕をして、孤児の養育に携わった。

 東京青山霊園に眠る。
 出口せいに関する記事はいまのところ少ない。しかし、出口せいの働きは神の前に大いなる謙虚さと神の栄光を照り輝かす献身者としての多大なる働きであり、その労は天国において報われているだろう。
カラゾルス,C.夫妻  明治2年(1869)7月来日。9月に東京築地居留地に英語私塾を開設。やがて私塾が発展して築地大学校となり、ここで原胤昭、田村直臣らが学んだ。慶應義塾に出講し、授業担当以外にも当時の義塾の学則をアメリカの制度を取り入れて改革することに寄与し、福沢諭吉の信頼を得ていた。文部省御雇教師となり、廣島英語学校、大阪英語学校に勤めた。一時帰国後、他でも英語教師と勤めた。

 夫人は、明治3年5月に築地居留地6番でA6番女学校と称する塾を開催した。やがて隣接地にアメリカ長老教会婦人伝道局から派遣された宣教師によってB6番女学校が開設されたことを受けて廃校にし、生徒の大半とともに夫の弟子原胤昭が銀座に開設した原女学校に転じた。のち、夫の転勤で東京を離れた。
千村五郎  牧師であり、英学者である。岐阜県加児郡久々利の領主頼久の孫。木曽五郎と称した。
 維新後、上京して英学塾協和社を開設した。福沢諭吉や箕作麟祥とともに名声があった。門下生のひとりに井深梶之助がいる。『英和辞書』の編集者のひとりでもある。渡米帰国後の明治7年(1874)、カラゾルス,C.から受洗。東京第一長老教会の役員を経て、美普教会牧師になって日本橋呉服町講義所を牧した。ハイデルベルグ信仰問答書の翻訳を手がけ、フルベッキ,G.H.F.が序文を寄せた。再度渡米し帰国後、中風で倒れ、東京で死没。
戸田欽堂  十字屋の創立者。大垣藩主氏正の子として生まれ、3,500石を受けた。明治4年(1871)3月、知事の父に同行して渡米し、東部で勉学を積み帰国。明治7年(1874)、カラゾルス,C.から受洗。10月18日、東京第一長老教会建設にあずかる。原胤昭とともに出資して東京銀座通りに耶蘇教書肆十字屋を開店して聖書、キリスト教書類を販売した。
 その2年後、ミッションを離脱して銀座3丁目に日本独立長老教会を組織し、幸福安全社と称する自由民権運動(愛国公党)の拠点とした。西南戦争後、信仰による実践行動を政治に反映すべく民権運動の結社北辰社を組織した。明治13年(1880)には国会開設請願の建議草案を起草した。
原胤昭  社会事業家。キリスト者として日本最初の教誨師。
 原家の祖に原主水がいる。原主水は小姓のとして召し出され30人組の頭になっていたが、徳川家康によって旗本直参にキリシタン禁止令が発せられたことにより、額に十字の烙印のうえ手足の指を切断され追放の身となり、のち江戸に戻ってハンセン病人の家に潜伏して信者らを励ましていたが、密告により江戸市中引き回しの上高輪札の辻で火刑に処せられて殉教した。
 胤昭は、江戸日本橋茅場町に生まれ、町方与力200石の原家を継ぐ。横浜修文館、築地英学校などで学び、明治7年(1874)10月18日、カラゾルス,C.から受洗。キリスト教に奉仕の生涯を送る決意を持って十字屋を戸田欽堂とともに開き、販売と同時に自らも出版編集刊行した。明治9年(1876)に原女学校を設立した。ここで最初のクリスマスが開催されたときのサンタクロース役を演じたのは戸田忠厚で、後に日本で最初の牧師のひとりとして活躍した。
 明治15年(1882)、自由民権運動の河野広中らが入獄した翌年、彼らの肖像などを刊行したことによる出版新聞紙条例に触れて石川島に収監された。この経験から監獄改良、免囚保護を志して政府に建白したほか、明治21年(1888)新設された兵庫監獄の教誨師となり、次いで釧路の集治監に赴任。
 晩年は七十路(ななそじ)会を作り、老齢教役者の慰労につとめる傍らキリスト教書類を収集した。これが基督教中央図書館の中核となった。
田村直臣  牧師。大阪天満の与力の子として誕生。少年時代は兵学校に学び、長じて塾で英語を学んだ。明治6年(1873)上京してカラゾルス,C.の築地大学校に入学。同夫妻の感化により翌年、受洗した。このとき一緒に受洗した戸川残花(安宅)、原胤昭その他と協力して東京第一長老教会を設立した。
 明治10年(1877)10月、東京一致新学校が設立された際に2年に編入し、その2年後に卒業。そしてフルベッキ,G.H.F.によって按手礼を領し、銀座教会牧師となる。渡米後、改称された数寄屋橋教会牧師、やがて巣鴨に移転後巣鴨教会。『日本の花嫁』事件で教職を免職となったが、生涯巣鴨教会を牧した。伝道者養成、日曜学校教育には特に力を入れた。足尾銅山事件にも積極的にかかわった。植村正久、内村鑑三らとともに「三村」と言われた。著書多数。
トゥルー,M.T.夫人 教育者。清教徒の流れをくむ敬虔なクリスチャンホームで育つ。献身を決意して夫とともに伝道活動に励んだが病弱な夫は死没。その遺志を継いで中国を経て明治7年に来日。翌年、アメリカ長老教会伝道局の勧めで東京の京橋(巣鴨)教会で伝道を開始。明治12年(1879)に金沢に移動後、一時帰国した。が再来日後は伝道のかたわら原女学校や桜井女学校などの発展に尽力した。新栄女学校に在任中、アメリカ長老教会から桜井女学校経営の責任者に委任され、幼稚園と看護婦養成所を付設するなどした。未信者の矢嶋楫子を教師として聖書と修身の授業を委ねたことは矢嶋自身も驚嘆したが、洞察する能力の高さと深さを持ち合わせているトゥルーならではの見事さであった。のち、新宿角筈に老人ホーム「養生園」を建設。
四ツ谷鮫ケ橋の
スラム
野口幽香らのはたらきがある。
出 典 『キリスト教歴史』 『明治学院百年史』
本多静六(http://www.town.shobu.saitama.jp/honda/oitachi/nen.html