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 幸田 延(のぶ)   明治3年(1870)3月19日〜昭和21年(1946)6月14日
 明治期〜昭和期のピアニスト、バイオリニストであり、妹の安藤幸とともに音楽教育家として大きな働きをなした。

 旧幕臣の父幸田成延、母猷(ゆう)の長女として江戸(東京下谷)に生まれる。幸田家は代々江戸城表お坊主の家柄。成延は奥お坊主今西家の出で、利貞(種善院)、芳(観行院)の一人娘猷のもとに入籍して幸田家を継いだのであった。

 父・成延が、明治17年(1884)、下谷(豊島岡)教会牧師植村正久から受洗したことで、幸田家は露伴を除いて全員が受洗し、クリスチャンとなった。延は明治21年(1888)9月27日に両国教会から下谷教会に転入した。

 延は、文豪・幸田露伴の妹であり、また明治国防、海事に活躍した郡司成忠大尉の妹に当たる。バイオリニスト安藤幸は6歳下の妹である。母・猷は一人娘として両親から慈しみと厳格なしつけを受けて育っただけに諸芸に秀でていた。猷は子どものころ教育を祖父から受けていたが、祖父の音楽好きは延を含めて8人きょうだいそれぞれが音楽に秀でていたことに影響を与えているだろう。

 延が長唄を覚えたのは口がやっときけるようになったころからだった。猷はお裁縫をしながら延をそばに座らせて、羽根の禿(かむろ)や雛鳥を口三味線で教えた。数え年5歳のころのおかっぱ姿の延は三味線のかわりに尺ざしをもってへらを撥にして針箱の前に座り教えられたのであった。母が祖父の希望で杵屋六翁の弟子である杵屋えつに長唄を習わせたように、延は数え年7歳になると、同じように杵屋えつのもとに入門させた。延が正式に稽古事を始めたときであった。

 小学校は高等師範の付属校であった。そのころ学校の帰りには山勢松韻についてお琴のお稽古に通った。山勢松韻は、そのころ音楽取調掛の講師もしていて、当時は筝曲の第一人者であった。13歳のころ付属小学校に音楽取調掛メーソンも唱歌を教えていた。

 そのころの音階はヒフミ(現在はドレミ)でやったので、聴音のときに「この音は何か」と質問されると、延は幼いころから長唄やお琴を習っていた成果が出て、楽々と回答できたことから、メーソンにたいそう可愛がられた。メーソンは延の音楽的素養を見出し、個人教授をしたいとメーソンのほうから言い出した。

 音楽好きの幸田家には何ら異論なく、毎週土曜の午後、学校が終わると猷に連れられて本郷の森川町にあった音楽取調掛に通った。

 延は、メーソン家ではじめてピアノを見て、ここでピアノを習った。当時は楽器店など一軒もなく、ピアノを見ることは稀なことであった。さすがの音楽好きの幸田家といえピアノを揃えることは考えられないことだった。その手ほどきをしたのが中村専であった。もともと中村家と幸田家は隣同士であった。あるとき、中村専がお琴を弾いていたとき垣根越しに熱心に聴いている延の姿を見つけた中村の家人が家に招きいれて茶菓のご馳走とともにお琴の演奏を聴かせてくれた。その奏者が中村専であり、専は、メーソンの助手で、英語が達者であったので通訳もしていた。そこへ延がメーソンの生徒となったのであった。(『女性人名』には「中村恵子として紹介されている。)

 明治15年にメーソンは帰国するに際して延の母を呼んで音楽の専門家にならせるように勧めた。
 このこともあって、延は小学校を終えるとすぐに音楽取調掛へ入学した。13歳であった。

 この年の8月に音楽取調掛伝習生規則が改正され、修業年限が4ヵ年となり、学科もこれまでの唱歌・洋琴・風琴・筝・胡弓に加えて実技のほかに修身・和声学・音楽論・音楽史・音楽教授法が教授された。そのときのピアノの先生が瓜生繁子であった。瓜生繁子は、明治4年(1871)に5人の少女が留学したそのひとりである。
 
 在学中から成績優秀で給費生であった延は、明治18年(1885)7月20日、16歳で音楽取調掛(所)第一回卒業生となる。
 同年2月に音楽取調掛は音楽取調所に改称され、所長として井沢修二が就任した。同年7月、現在の芸術大学音楽部のある上野公園地東四軒寺跡文部省用地の教師館建物を増築して移転した。

 新館で7月の20日に取調所全科卒業生の幸田塩・遠山甲子・市川ミチ子らの卒業式が挙行された。式後、『音楽取調所第一回卒業演奏会』が開催された。そのプログラムによると、延は遠山甲子のピアノ伴奏でヴァイオリン独奏「ラスト・ローズ・オブ・サマー」、ピアノ独奏「舞踏への招待」(ウェバー作曲)を披露した。ほかにも本邦俗楽の合奏で筝を担当している。明治18年で、まともに演奏できたのは中村専、瓜生繁子など2、3人程度だったといわれている状況下での演奏であった。

 卒業後母校の教師をつとめるが、同22年に第一回文部省留学生に選ばれてアメリカ、ヨーロッパに留学した。イングランド音楽学校に2年、ウィーン国立音楽学校に5年学び、ピアノ、ヴァイオリン、ビオラ、声楽、音楽理論を修めた。明治25年2月14日「毎日新聞」にはイタリアにヴァイオリン練習のために留学を命じられた延が、さらに2年間の延期を命じられた、と報道されている。それほどに国から期待された人材であったことが頷けよう。

 明治28年に帰国後東京音楽学校ピアノ科教授となり、演奏と教育の両面で活躍した。その間に明治期〜昭和期のソプラノ歌手・三浦環が東京音楽学校に明治33年に入学した。そのとき延が、環に声楽を指導した。

 上野の西大后のあだ名がついたほどであった。44年(1911)9月スキャンダルに巻き込まれて職を退いた。
 
 明治45年(1912)春、隅田川の氾濫のため、露伴の子(文、成豊)を延の居宅である麹町区紀尾井町で面倒を見た。晩年まで自宅で個人教授を続けた。

 昭和12年(1937)6月音楽界最初の日本芸術院会員となった。77歳で死没。東京大田区池上本門寺に葬られた。
 著書に『私の半生』がある。
<やりかけ>
明治45年
(1912)
同年7月30日、天皇没(61歳)に伴い、大正と改元。
幸田 露伴  作家。  露伴は受洗をしなかったが、父の勧めで聖書を読み、教会に通った。時には植村正久とキリスト教について大議論を交わす。後妻として迎えた児玉八代はあまり家庭的でなかったらしく、日記(大正2年4月24日)に妻と媒酌人船尾栄太郎に対する次のような呟きが出ている。妻したたかに晏く起き出で、身じまひして外出す。基督教婦人会へ臨むは悪からねど、夜に入りて猶かへらず、殆ど予を究せしむ。頃日来差逼れて文債を償ふに忙しきまま、小婢まかせになし置く、家の内荒涼さ、いふばかりなし。(略)船尾栄太郎来り、青年雑誌の為に文を求む。幸のをりからなれば言はんと欲すること多きも猶忍びて言はず。此の人善意をもて媒酌しくれたるなれど、眼鈍くして人を観ること徹せず、妻をあやまり予をあやまるい近し。(後略)
幸田 文  幸田露伴の次女。作家
出 典 『幸田露伴』 『幸田文』 『音楽』 『音楽演芸』 『日本女性史6』 『女性人名』 『星野光多』 『植村 3』 『明治ニュース事典4』
メーソンのピアノ http://www.jpta.org/top/topix/fair2001/index3.html