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 安藤 幸(こう)   明治11年(1878)12月6日〜昭和38年(1963)4月8日
 大正・昭和期のヴァイオリニスト。姉の幸田延とともに日本におけるヴァイオリニストの草分けである。
 旧幕臣幸田成延、猷の娘として東京下谷に生まれる。千島開拓者・郡司成忠、文学者・幸田露伴(成行)、歴史学者・幸田成友の妹でもある。

 幸は幼いころから習い事をいくつか身につけていた。
 数え年5歳の満3歳ころには母親から百人一首を教わっている。幸は毎日、百人一首を全部読み返すことになっていたが、途中で泣き出す癖がついてしまった。そのころ、近所の踊りの師匠のところへ行きたくなった幸は、母から百人一首を三日泣かずに読めたら踊りの師匠のところへ連れて行ってあげる、と言われてそのとおり実行した。その結果、望みどおり西川喜舞(きん)師匠に弟子入りして、7年間、10歳になるまで続けた。幼いころからひよわだった幸にとって、踊りが健康によかった。

 お琴を姉とともに5歳のころから習い、8歳のころには奥許しを得た。その後、音楽学校に入学しても続けた。あまり興味のわかない曲などは上の空でおさらいをしていると母がすぐに聞きつけて注意を与えた。母の猷は音に敏感な感性の持ち主であったことが伺える。兄の露伴は、自分が聴きたい曲や習いたいと思う曲を、幸に習いに行かせて、幸から習ったり弾かせ、代わりに動物のたとえばなし等をしてやった。

 近所の芳林小学校に入り尋常高等全科を卒業後、音楽学校の選科に入った。
 10歳のころだった。姉が習うことになっていたディートリッヒのもとに姉に連れられて出向いたとき、ディートリッヒが幸の手を見て「この子はいい手をしているからヴァイオリニストにするといい」と言われたという。東京音楽学校でルドルフ・ディートリッヒ、アウグスト・ユンケルに師事して姉の延とともにヴァイオリンを学ぶことになった。音楽の趣味は母親譲りであろうが、何事も最後まで成し遂げるしつけは祖父の代からの厳しい幸田家の家風であった。

 13歳で音楽学校予科に入ったが、そのころの幸田家は向島に住んでいたので、竹屋の渡しをわたり、浅草公園をぬけ、下谷万年町を通り、屏風坂を上って音楽学校まで毎日1時間ばかり歩いて通学した。

 同級生に東くめがいて、仲良しだった。くめはよく幸田家に泊まりに来た。ふたりは一緒に床を並べて寝るとき、枕元に本を数冊積み重ねて置くのだった。幸は少し読み始めるとじきに寝入ってしまったが、くめはランプの油がなくなるまで読書に耽った。そうしたくめくめの文学好きが後年の唱歌の歌詞を多く作って、滝廉太郎などの作曲で今でも年齢を超越して愛されている作品、たとえば「お正月」「はとぽっぽ」「水あそび」があることも頷ける。

 幸が本科生になったとき、ディートリッヒが期限満了となり帰国したが、代わりの指導者がいなくなった。やがて明治28年に姉の延が留学から戻り音楽学校教授に就任したので、幸は一生徒として教えを受けた。幸は姉が本場で学んできたばかりの技術を学び取りどんどん上達し、明治29年、音楽学校を18歳のときに主席で卒業した。同じ年には兄の成友が東京帝国大学を特待生として卒業している。幸は卒業後引き続いて研究科に籍を置き、勉強を続けながら演奏会にも出演して天才振りをうたわれた。

 幸は、姉の延に対する尊敬は生涯を通じて誰の目にも驚くばかりであった。指導者となった幸は自分の生徒のなかで優秀なものをときどき延の前で弾かせて批評を乞うことがあったが、そのとき姉の前で最敬礼をして「恐れ入ります」と言って姉のことばを傾聴する幸であった。幸の生徒たちが面食らったほどだった。

 明治32年(1899)、文部省の海外留学生に選抜され、ウィーン留学が許された。それまで和服に日本髪だったが、洋行と決まってからは洋服をあつらえ、靴を注文して、初めての洋装で出かけることとなった。幸いにして姉の延が留学経験者だったので万事を姉の指示にしたがった。渡航の船も早く外国の風習に慣れるようにとの姉の指図でフランス船を選んだ。

 かねて姉から語学の大切さを知らせれていたので、ウィーン到着後、3ヶ月間はドイツ人の先生についてドイツ語の勉強に励んだ。ウィーンには姉の友人や東京音楽学校時代の教師ディートリッヒもいたので、幸の留学を喜んで迎えてくれる人々に囲まれ、ときどき自宅にも招き入れれくれる歓待振りだった。

 兄の露伴は、11歳下の幸を可愛がった。幸も兄を大変尊敬していた。
 
<やりかけ>
渡 鏡子(1916-1974)  チェコ音楽の研究家、また評論家・翻訳者としても著名。昭和11年(1936)東京音楽学校本科作曲部の第一期生として卒業した。在学中は、安藤幸にヴァイオリンを、信時潔とK.プリングスハイムに作曲を師事。1961年O.ショウレックの『ドヴォルジャーク』の訳書を出版、63年には日本人女性として初めて「プラハの春」音楽祭に招待され、翌年ドボルジャーク博物館館長より「ドボルジャーク協会会員証」が贈られる。
出 典 『幸田露伴』 『音楽』 『女性人名』
http://women-music.cool.ne.jp/sakkyokuka.htm
http://www.enju.co.jp/meiji-e13.htm
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